紹介(18) 『捜神記』 著:干宝 a2

42 扶南王
 扶南王の范尋は、山の中に虎を飼っていて、罪を犯した者があると虎に投げあたえ、虎が食わなければ、ゆるすことにしていた。そこで、この山は大虫とも大霊とも呼ばれる。また、尋は鰐を十匹飼っていて、罪を犯した者があると鰐に投げあたえ、鰐が食わなければ、ゆるすことにしていた。罪を犯していない者は、誰も食われないのである。このために鰐の池をこしらえておいたのだ。
 また尋は、水を沸騰させ、金の指輪を湯の中に投げ込んでおいてから、容疑者に手を入れて探させたこともある。すると、無実の者の手はただれず、罪を犯した者は、手を入れたとたんにやけどを負った。 『捜神記』 干宝 竹田晃平訳 平凡社 昭和39年 41頁

 

……ところで、このくじが一体どういうものであったかについては、聖なる教父たちの意見も、ふたつにわかれている。ヒエロニュムスとベーダは、旧約時代にふつうにおこなわれていたくじであったとと書いている。しかし、聖パウロの弟子であったディオニュシウスは、そのようなくじは神をないがしろにするものであるときめつけ、このときの〈くじ〉は、天からくだって聖マッテヤをつつんだ光以外のなにものでもなく、これによって彼を使途にくわえるべきことがしめされたのだという。 『黄金伝説1』 ヤコブス・デ・ウォラギネ 前田敬作・今村孝訳 平凡社 2006年 465頁

 

概して、自らの存在を疑うと主張する者は目障りである。実存主義者は、疑いと、降って湧いた値の偽を重ねる。「わたしなるお前はどこから来たのか?」わたしはやはり、わたしとあなたが、わたしたちに嘘を告いている気がする。同じ口で他者を罵り、労働の対価を請求するとは狂っている。「労働の対価」を求める様に、強制された奴隷は憐れである。主人が全く悪いのである。我々は神ではなく、全き意味で弱い。我々は人の都に家を構える。記憶と認められるが故の経験との入れ子の都に、突然に生じ、自然に消え、残り続ける都に住む。

 

 思えば、日本語は鼻母音の役割が少ない。人は隠れた/隠れているconditions条件、偉大なわたしが攫い隠すcondition条件節、日常の中で忘れているpremises前提、失うことを諦めたpremise前提ーconditions条件の下に暮らす。我々には、他者を躓かせない義務がある。他者を躓かせない義務は、全てではない。人は孤独では生きて行けないとは、複雑な複雑さの表現である。孤独な彼は、社会の傍らから孤独に見えない人々を観察ー内省し、equal同等にfair公平な基準として自らの位置と内部を定めようと考えている。偶有性で言語一般が否定される。targeting対象化は意識において置きる。nominalization名詞化が済まないtarget対象は主体に対応していない。問題はtimingと同様である。価値の同等な選択は有る。選択肢は人が置くに過ぎない。転じて、知り得る情報の限界が示される。選択において、重要なのはfaith信仰/信頼/誠意である。

 

 先天的盲者は眠り、我々の見る夢を見ない。我々は彼らの世界を想像出来ていない。我々の視覚を基に推察する。complement補完という言葉には、前提に「我々」が置かれている。蛇、複眼を持つ昆虫は、人間の様に物を見ない。無論、隣人がわたしと同様の視覚を得ていると確証する証拠は有り得ない。クオリアは疑似問題である。人々は自らの属する時代の社会の普遍性を錯覚して生きている。消費者は、一人一票の多数決が何事かに関わらず正当性を持つ、とする。素朴な唯物論である。奴隷は各時代、各地域で多様だった。ギリシアとローマは演説を大いに楽しんだ。識字率は言語の特性と地理を加味しなくてはならない。冒険商人は海にならず者、人を捕る漁師を考慮せず航海に向かわない。


 文化における偶然の肯定、公平さの部分は多様な形で現れる。どの様な場合に、偶然の介在を認めるかで、特定の社会の様態が露わになる。アテネでは、元老院の選出にはくじ引きを用いた。賭博、籤への忌避感は、アラブ、東アジアに根強い。自分が貧しい家庭に生まれたら、と人は推察できる。伝統は人の慰めとして利用される。新しい土地で自信を尊ぶ文化を引き出すのは心身の健全と言える。

 

 聖的な事柄から、偶然を排除する心理は重要である。出身には神の働きが反映されると解釈すれば、社会が硬直的となるのは明らかである。社会階層の移動は基本的に望ましくなく、例外として処理される。ルネサンス、宗教革命がこの硬直的な社会の反動であったとは言い難い。聖職において最も重要なのは、霊の働きと特定の人間の意志の合致である。職業召命観は聖俗無差別に、プロテスタントの偶然の否定を推し進める。これが共同体と、共同体の群としての社会を破壊することは示されている。

 

 

君らの深慮を疑う気は毛頭ない。さあ、みんな、その血に濡れた手をくれ。まず最初にマーカス・ブルータス、君と手を握ろう。つぎはケイアス・キャシアス、きみの手をいただこう。さあ、ディーシアス・ブルータス、きみの手も。今度は君だ、メテラス。きみも、シナ。それから勇敢なるキャスカ。きみの手も。最後に、だが、劣らぬ友情をもって、きみの手を、トレボーニアス。ところで、みなに……いや、どう言ったらいいのか? おれに対する信用の足場はひどく居心地の悪いものだ、きみらのおれを見る目は二つに一つ、それがいずれも悪名、つまり腰抜けか阿諛追従の徒か、そのどちらかに違いない。 『ジュリアス・シーザー』 ウィリアム・シェイクスピア 福田恒存訳 新潮文庫 昭和43年 71頁

 

 

 (希)logos/(羅)ratioは、多義的である。古代ギリシアにおいて、既に多様である。動詞形legeinは拾う、集めるの意味がある。古代ギリシアでは、言葉が、知性ある単一者から発する事は肝要だっただろう。近代的なobjectivity客観性からは隔たりがある。reason理性/理由を持っていた、ニュートンライプニッツらにより微分積分学が展開された。rationalism合理主義が起きる。形容詞rational合理的に/なには、暗に明らかにlimit極限を意味が与えられた。

 

 win-winとは間抜けな賊、キャリバンの考えである。爆弾を押し付け合う(fair/)market市(場)、奴隷と取引するfair(/market)市(場)で対象化される考えである。実際、バナナと魚を交換している頃は、互いの利益は互いに自明である。対象化されない。交換、貿易から利益を独立させて考えない。また、契約はgood faith善意(を)/に/で/から成り立つ。右の手を出され、左の手で握り返すねばなら、相手は恋人かチンパンジーである。犬に芸、「お手」を仕込むのである。

 

「我々は右利きだ」。「ぼくは左利きです」。
 台無しである。「何だ、とるにたらない鏡の中のわたしか」とはならない。中国では、鏡にantithese反と逆と裏の混交が見いだされた。人間とは、「斯様な何か」である。社会は人間を定める。「我々の右が、お前の左とequal等価/衡平なのか」。十二世紀にイスラムからイタリアの商人を通じて、複式簿記のヨーロッパへの移入が始まった。左が借方で、右が貸方である。逆かもしれない。見るのと負うのでは全く異なる。現代はfeudalism封建制ではない、はずである。人件費とは妙な表現である。リース資産に計上すべきである。

 

 「価値尺度に金銭(尺度)しか用いることができない」、とはpartial偏狭な、先入観に囚われている者の考えである。「価値とは金銭で量られる」とは痴愚である。「価値とは信用である」のみでは、数による邪なconsprators徒党である。右利きでなくてはならなかった。右が善く左が悪かった。モラトリアムに負債を増加させる者はいない、とは言い難い。凶賊は討たねばならない。イスラム教徒は隻眼を嫌った。カルデア人は、重しの入った魔法のサイコロを造る。他の息子を悪い道に引きずり込む息子は救い難い。幼い子供は湯呑みの中で茶渋が回る様に見惚れる。労働と生みの苦しみで足りるはずだった。

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