ヨハネによる福音書(15:15)わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしの父から聞いたことを皆、知らせたからである。

しかしこれもそもそものはじめから、「純粋な」意識としてあったのではない。「精神」には物質が「憑きもの」だという呪いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気、層、音、約言すれば言語の形式において現われる。​『マルクスエンゲルス全集3 ドイツ・イデオロギー』 真下信一訳 大月書店 1963年

 

 だが、老ヘーゲルは、もし彼があの世で次のようなことを聞いたら、いったいなんと言うだろうか? というのは、ドイツ語や北欧語の das Allgemeine(一般)が意味しているものは共同地にほかならず、 das Sundre, Besondre(特殊)が意味しているものは共同地から分離した個別所有地にほかならないということだ。そうならば、いまいましくても、論理学の諸範疇は「われわれの交易」から生じている、ということになるわけだ。(1868年3月25日 マルクスからエンゲルスへ)『マルクスエンゲルス全集 32』 大月書店 45頁

 

……しかしながらここで指摘しておく必要があるのは、ヘロドトス自身が純粋にギリシア系の生まれなのではなく、混血の出自であったという事実である。彼が生まれたのはハリカルナッソス、今でいえばトルコ西岸に位置するボドルムにあたる都市で、おそらく前四八〇年代のことであった。ハリカルナッソスは、ペルシア帝国の総督(サトラップ)が治める属州リュディア内の、地理的にはカリアと呼ばれた地方にあった。ゆえに彼は、ペルシア帝国の一市民として生まれたことになる。彼はこのペルシア帝国を、のちに自分のライフワークのテーマに選んだわけである。だがハリカルナッソスというポリスは、政治的に独立していなかったわけではなく、そこに住む住民も、生粋のギリシア人ばかりではなかった。ヘロドトスの父もおじ(もしくはいとこ)も、その名前はカリア人名か、もしくはカリア系に由来するものであり、これはギリシア人と「原住民」との間の通婚か、あるいは他のなんらかの密接なつながりの結果であると考えられる。あるいはむしろ、カリア人がギリシア語を解さなかったという事実をくみとれば、「原住民」ではなくて、「バルバロイ」、すなわち異国語を話す人々、といいかえた方が語の本来の意味にかなっているだろう。ホメロスが「バルバロフォイ」、すなわち「バルバルとしか聞こえない異国のことばを話す人々」という添え名を用いて―これはホメロスがこのことばを使っている唯一の例なのだが―形容している民族とは、まさにこのカリア人なのであった。『古代ギリシア人 自己と他者の肖像』 ポール・カートリッジ 橋場弦訳 白水社 2001年

 

ヨハネによる福音書
(15:12)わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(15:13)人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
(15:14)あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
(15:15)わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしの父から聞いたことを皆、知らせたからである。

 

トマス・アクィナスは、「神の存在論的証明」を行った。教会内で三位一体の神の存在が疑われていた、とはならない。ルネ・デカルトは、「ルネ・デカルト」の存在と「神」の存在は疑えないとした。ルネ・デカルト の隣人が「ルネ・デカルト 」の存在を疑ったかは不明である。アイザック・ニュートンは、「重力」についての説明の必要性を覚えない。アイザック・ニュートンは、「重さ」を有した。ルネ・デカルトアイザック・ニュートンが、神の存在を疑っていた、と考えては、愚かである。tautologyは推論である。然もなければ、declaration表明(ーconfession告白)の結果(ー効果)が紛失する。

 

教会はキリストの花嫁である。わたしは、金を持たない盗人が食料品店でものを盗む事はrational合理的だ、と思う。怪盗が富者を狙うのは合理的であり、心は晴れやかになる。かつては、義賊が金をばらまかずとも、吹き溜まりの破壊で循環を喜んだ。金は天下を回る。警察、公務員とは、軍隊、暴力団の婉曲表現である。次の集団は、名を冠していても、元の集団ではない。浮遊する名(板)への「騙り」が現れる。

 

『金梅瓶』の婆さんには、姦通に婆さんなりの「_理」が見出せる。つまり、婆さんは、西門慶に対して(ⅰ)わたしに貴様は定まった、わたしは貴様を知っている(ⅱ)わたしは貴様を掴んだ、わたしは貴様を持っている(ⅲ)わたしは貴様を適用する、と述べている。

 

人間は酩酊して前後不覚の状態にある、殴打され昏睡状態にある、などの例外を問わなければ、ratio比を用い、言葉を用いる。ratioは形容詞化すると、「客観的な(/に)」limit極限になる。ratioは形容詞化され、有形なところでratioの意味がtrivialとされている。

 

世界には人がいる。世界には二種類の人がいる。世界には二種類の人間がいる。( ? 「出来力」「可能力」)「世界には二種類の人間がいる」。集団の対立、post-human、ゾンビ、フランケンシュタイン、サイボーグ、アウストラロピテクス、いずれにせよ、「世界には二種類の人類がいる」と言えば、世界はSFである。知識は信仰によらなければ不確実で、probability蓋然性の問題となり、悪用されうる。思惑をともあれ、意志により選択しなければならない。

 

聖書は敵への報復、というか、仕返しを許していない。「右の頬を打たれたため痛い」は、現実感がある。感覚:痛みは現実であり、常に真であり、感覚:痛みが真でない場合は例外である。「右の頬を打たれたため、相手の右の頬を打つ」は、習慣による( ? actualism、realism)。

 

第一次世界大戦第二次世界大戦期を過ごした、スイス人神学者カール・バルトは、組織神学を述べず、キリストを中心に構成した。カール・バルトは、虚無的なものの拒否はキリスト教的である、と説いた。人一人の思考は突き詰めれば、「選択」の選択の拒否で留まる( ? 『シッダールタ』ヘルマン・ヘッセ)。近代には、「東洋」が西洋で流行した。

 

アメリカ、スイスで裁判官の職を務めることは、日本で裁判官の職を務めることと同じではない。日本国憲法第十九条は、「思想および良心の自由はこれを侵してはならない」としている。国家の施行する法とから一般に「freedom of thouhght and conscience思想および良心の自由」は言論、出版と関わり、法の下に運用される。また、良心の自由は宗教と関わりで運用される。

 

mashとmushは異なる。pumpkinはsquashである。逆として、squashはpumpkinである、とした場合、真偽は一致しない。あるsquashはpumpkinではない、とは限らない。conscience良心とconsciousness意識の区別が生れた。liberal arbitrum意志(ー意思)の自由は、freedom of thoughtと、free will自由意志に(転換/)transformation変容した。自戒と罪な思考の理念は弛んだ。

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