紹介(1)『鯰絵—民俗的想像力の世界』 著:コルネウス・アウエハント e

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 鯰絵は、一八五五年の江戸地震直後に現れたというだけではない。この地震こそが鯰絵の現れる直接の原因であったのだ。すなわち、版画およびそこに描かれた絵画表象は、きわめてユニークな方法で災害に対する反応を表したもので、地震と密接な関係を持っている。というのは、絵にそえられている詞書がはっきりと地震に言及している場合もあるが、ほとんど全ての場合、いろいろな形をした奇怪な魚、つまり鯰が描かれているからである。この鯰は、地震を引き起こすことができると考えられており、しばしば「地震(の)魚」とも呼ばれた。


『鯰絵―民俗的想像力の世界』 コルネリウス・アウエハント 小松和彦中沢新一飯島吉晴・古家信平訳 せりか書房 1986年 27頁

 

 

 

 隠して(ⅰ)隠すこと(ⅱ)話すまでもないこと(ⅲ)話す気分にならないことがある。話して誠実さを装い(ⅲ)をかすめることを狙う。仏像の指先は揃い、それゆえ水掻きは見えない。火焔土器の曲線と継ぎはぎのボロのあざとさの比較。戦死者の慰霊の葬儀には、赤い晴れ着に身を包んだ東北の寡婦がいたらしい。小学生のわたしがいっぱいに描いている、ぐりぐりした目と牙のすべての魚。クジラ汁に浮いた白黒の脂身、兵庫で見たおでんに入れるという脂身の乾物。成りたいものを食べるという発想を不合理だとは考えない。三菱のペレットとローマ人の豚。偉大な四千年の勧善懲悪と、粗末な小屋で座る親鸞や船の上の日蓮は新潟で何かを受け取ったのだろうか。雪に埋もれた庵で親鸞は墨で経を書いていて、星のない冬の夜に火の前で経を唱えている。

 

 

 著者のコルネリウス・アウエハントは、1920年にオランダ、ライデン市に生まれ、ライデン国立大学にてインドネシアの言語、日本語、中国語および文化人類学を学んだ。その後、1945から1950年にかけてインドネシアで公務員として勤める。原著は1964年に出版された。当該著作後、研究は、沖縄、八重山諸島波照間島でのフィールドワークに移る。

 

 

 鯰絵は木版多色刷の一枚絵、ないし綴本として、1855年の11月の11日(安政2年10月2日)安政江戸大地震の直後から盛んに発行された。作者の署名や版元の捺印のある物は少ない。絵を構成する素材には、鯰、鯨、人型の魚、鹿島大明神、恵比寿、要石、金持ち、左官(大工)がある。絵には、—浮世絵としては珍しいことではないが—いくつかの詞書(文字)が付される。そこでは、駄洒落や掛詞で嘲笑が表現される。色調はむしろ単純で、顔料は安価なものを用いている。

 

 

 江戸は少なくともアジアの内では、都市と表現できる程度に消費者を有していた。まだ互助的な性格であったとはいえ、無尽などの保険業らしきものも育ちつつあった。イギリス人領事のサー・ラザフォード・オールコックの述べることを踏まえても、災害と刑罰は公営の見世物だったようだ。金融業を担う町人、商人が台頭し、富豪と呼びうる者が現れ、貧富の差が生じた。もっとも、他の東洋の専制君主の支配と同様に、災害が起きる度に、ないし、過度な奢侈により、富豪の財産は没収される。

 

 

 農作物の生産地として一定の規模を占める東北は、亜熱帯原産の、品種改良されていない水稲を栽培するなら、冷害の影響を被りやすい。特に、大阪を中心にした米の先物取引に影響を及ぼす。(奢侈品という表現にふさわしくない)煙草は消費され、(飲料水であり、奢侈品である)酒は水でより薄めてはいたが、日中でも呑まれるものだった。茶は、急須で淹れるにせよ、お湯で煮だすにせよ、水を「飲料水」とすることができた。日の入り、日の沈みに基づき寺の鐘を打つ不定時法が用いられた。

 

 

 習俗は地域によって様々であり、画一な相続戦略や家族構成を論じることはできない。人口は飢饉、嬰児殺しなどによっても随時調整を受けたが、特に、農村では余剰な人員が発生する。都市には余剰な労働力が流入した。木造の町屋・長屋は、破壊することを前提に造られ、周辺が排泄物に依存するように、都市を周辺に依存させた。 1853年7月には、開国交渉のためペリーが来航する。後に始まった貿易は、金・茶・蚕が主だった。黒船の来航と同時に述べても構わないだろう時期から、各地で地震が頻発する。資料はあるが、被害は誇張される。

 

 

 写真は、1859年の着工の横浜居留地(山下居留地)の完成する前にも、諸藩で数葉は撮影されたらしい。1866年には豚屋火事で一部消失したが、幕府の許可を得た写真家により、日本各地の風景が記録として納められ、浮世絵の水彩を用いた彩色絵葉書として、フェリックス・ベアト(フェリーチェ・ベアト)、チャールズ・ワーグマンらによって販売された。

 


 写真館は、後に、日本人の写真家となる日本人の弟子をとりつつ増加したが、1900年に至る前からすでに退潮が見られる。(当時の新聞を信用に足るものとするなら)初期の居留地への移入者は、二本の刃物への武装として拳銃を携帯したがったことから、あまり行儀のよい連中ではなかったらしい。オールコックの『大君の都』には、しきりに野鳥の狩猟を求める居留者の姿が記録されている。著作での彼は、中国人の辮髪に慣れ切っていたのか、日本人の身なりに注意を払っているようには見受けられない。登頂での国歌斉唱で終わる富士登山では、随行する武士と、現地住民の姿を対比して安堵するサー・ラザフォード・オールコックを描いている。

 

 

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