紹介(1)『鯰絵ー民俗的想像力の世界』 コルネウス・アウエハント 

 鯰絵は、一八五五年の江戸地震直後に現れたというだけではない。この地震こそが鯰絵の現れる直接の原因であったのだ。すなわち、版画およびそこに描かれた絵画表象は、きわめてユニークな方法で災害に対する反応を表したもので、地震と密接な関係を持っている。というのは、絵にそえられている詞書がはっきりと地震に言及している場合もあるが、ほとんど全ての場合、いろいろな形をした奇怪な魚、つまり鯰が描かれているからである。この鯰は、地震を引き起こすことができると考えられており、しばしば「地震(の)魚」とも呼ばれた。『鯰絵―民俗的想像力の世界』 コルネリウス・アウエハント 小松和彦中沢新一飯島吉晴、古家信平訳 せりか書房 1986年 27頁

 

マタイによる福音書

(5:14)あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
(5:15)また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。
(5:16)そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

(5:17)わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

(5:18)よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

(5:19)それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

(5:20)わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

 

(ⅰ)意図して隠すこと(ⅱ)努めて話さないこと(ⅲ)話さない事がある。我々は、会話でfaith誠実さを装う。会話では誠実さが装われている。仏像の指先は揃い、水掻きは見えない。火焔土器の曲線と、継ぎはぎのボロのあざとさを比較する。戦死者の慰霊の葬儀には、赤い喪服に身を包む東北の寡婦がいた。成りたい物を食べる、という発想はさして不合理ではない。三菱のペレットは豚の血液を材料としている。四千年間、中国人は偉大な四千年の勧善懲悪の夢を見ていた。寒い粗末な小屋で座る親鸞や、揺れる船の上の日蓮の思考を再現しうるかが問題である。雪に埋もれた庵で親鸞は墨で経を書いていて、星のない冬の夜に火の前で経を唱えている。

 

著者のコルネリウス・アウエハントは、1920年にオランダ、ライデン市に生まれ、ライデン国立大学にてインドネシアの言語、日本語、中国語および文化人類学を学んだ。その後、1945から1950年にかけてインドネシアで公務員として勤める。原著は1964年に出版された。当該著作後、研究は、沖縄、八重山諸島波照間島でのフィールドワークに移る。

 

鯰絵は木版多色刷の一枚絵、綴本として、1855年の11月の11日(安政2年10月2日)安政江戸大地震の直後からさかんに発行された。作者の署名、版元の捺印のある作品は少ない。絵を構成する素材には、鯰、鯨、人型の魚、鹿島大明神、恵比寿、要石、金持ち、左官が挙げられる。絵には、珍しいことではないが、いくつかの詞書が付され、駄洒落や掛詞で嘲笑が表現されている。色調は単純で、顔料は安価な材料(ー素材)を用いている。

 

江戸は、都市と表現できる程に、consumer消費者を保有していた。将軍が計画し、将軍の下で大きな市が営まれていた。金属貨幣は市場で広く流通していた。互助的な性格(ーform形態)だったとはいえ、無尽など、保険業らしき事業が育ちつつあった。『大君の都』における、イギリス人領事のサー・ラザフォード・オールコックの記述を踏まえれば、災害と刑罰は公営の見世物だった。金融業を担う町人、商人が台頭し富豪と呼びうる者が現れ貧富の差が生じた。もっとも、他の東洋の専制君主の支配と同様に災害が起きる度に、または、excessive luxury(ーextravagance)過度な奢侈により富豪の財産はbe exploited没収(ーbe confiscated収奪)される。

 

農作物の生産地として一定の規模を占める東北は、水稲を中心に栽培するなら冷害の影響を被る。煙草が消費された。飲料水であり奢侈品である酒は水で薄めていたが、日中に摂られた。茶は急須で淹れる、釜で煮だすを問わず、水を飲料水にした。日の入沈みに基づき、寺の鐘を打つ不定時法が定まっていた。習俗は地域で様々であり、画一に相続戦略、家族構成は論じられない。武家、農村、町人で異なることは疑いえない。人口は飢饉、嬰児殺しでときどきに調整を受けた。農村では余剰な人員が発生する。都市には労働力が吸収した。木造の長屋は破壊することを前提に造られ、周辺の農村が排泄物に依拠/依存する様に、都市を周辺の農村に依拠/依存させた。1853年7月には、開国交渉のためペリーが来航する。後に始まった貿易は、金、茶、蚕が主だった。黒船の来航と同時に述べても構わないだろう時期から、各地で地震が頻発する。資料は残る。被害は強調ー誇張された。

  

写真は、1859年の着工の横浜居留地(山下居留地)の完成する前に、諸藩で数葉は撮影された。1866年には豚屋火事で一部が消失する。幕府のゆるしを受けた写真家により、日本各地の風景が記録としておさめられ、浮世絵の水彩を用いた彩色絵葉書として、フェリックス・ベアト(フェリーチェ・ベアト)、チャールズ・ワーグマンらが販売した。写真館は、後に、日本人の写真家となる日本人の弟子を受け入れつつ増加した。1900年に至る前から退潮が見られる。当時の新聞が信用に足るなら初期の居留地への移入者は、二本の刃物への武装として拳銃を携帯したがった。オールコックは、著作『大君の都』に、野鳥の狩猟を求める居留者の姿を記録した。著作での彼は、中国人の辮髪で慣れたのか、日本人の身なりに注意を払っているように記述していない。登頂での国歌斉唱で終わる富士登山では、随行する武士と、現地住民の姿を対比して安堵するサー・ラザフォード・オールコックを描いた。

 

 鯰が人間の姿をとることで、鯰は人々(そして神々)の中に混じって普通の人になる。つまり、子供、女、男の姿をとり、あらゆる種類の職業に従事する人、等々さまざまな人間の格好をとって表される。……

 2586の版画では、こうした社会階層の差、つまり持てる者と持たざる者との戦いが図案化して説かれている。持てる者、すなわち、武士、新興町人、問屋、高利貸し、株仲間の有力者、さらに遊郭の遊女たちまでも鹿島大明神に率いられており、持たざる者、すなわち、奉公人、小商人、職人のように強力な株仲間における地位や名声を持たないものは、彼らの鯰に率られ支援されている。『鯰絵―民俗的想像力の世界』 コルネリウス・アウエハント 小松和彦中沢新一飯島吉晴、古家信平訳 せりか書房 1986年 3237

 

飼い馬と自分の膝に話しかける農夫は多かった。チンパンジーとイルカを偏愛する自由主義者は責められない。自然の摂理を維持する為政者と、為政者への天の咎め天皇から将軍へ、将軍から天皇へ、カリフからスルタンへと移す思考は不合理ではない。市場の中で疎遠な富豪と遊女が、為政者と一体に扱われるのは理解できる。掛詞と駄洒落を好んだ江戸の人々が毎度音読したのか、不明である。組み合わせは、分離されず、(無)意識に対峙する。猪鹿蝶の世界である。善き中国人と同様に、定型化は好ましいと受け取られた。トルコのスルタン、天帝、堯と舜から続く王、始皇帝以来の皇帝を含め、東洋のreligious宗教の歴史は変わらない。往って還り、行き過ぎな所には罰が置かれた。人間だけは負えない記憶を偶像に託して進む。預けられた記憶は符号となり、符号となった記憶が偶像を殖やす。

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