紹介(2)『鯰絵ー民俗的想像力の世界』 コルネリウス・アウエハント 

 (81)マルクスの理論は本質的に科学的思考の一つの彼岸であり、そこでは科学的思考は乗り越えられたものとして保存されているにすぎない。闘争を理解することが大切なのであって、いかなる意味でも法則を理解するのではない。「我々は唯一つの科学しか知らない。歴史という科学だ」(『ドイツ・イデオロギー』)

(84)マルクスの思想の中の科学的-決定論的側面はまさに一種の裂け目であって、そこを通って「イデオロギー化」の過程が入り込んだ。それは、彼の生前に生じたことなので、それだけにいっそう大きな理論的遺産として労働運動に遺されたのである。歴史の主体の到来はまだずっと後に延期されており、経済学というすぐれて歴史的な科学は、将来におけるそれ自身の否定の必然性をますます大きく保証する傾向にある。だが、そこにおいて、理論的視野の外に押しやられているものは、この否定の唯一の真理である革命的実践なのである。重要なのは、経済の発展を忍耐強く研究し、今尚その苦痛をヘーゲル的平静さをもって認めることである。それは結果として「善意の墓場」に留まるのである。今や、革命の科学に従うと、意識の到来は常に早すぎる、それゆえ意識は教育されねばならなくなるだろう、ということが発見された。

137)……人生の齢の変遷、旅、すなわち別の場所に意味を有する世界への還ることなき移動とと見なされた人生、これらのなかに誰もが個人として、ある種の不可逆的な時間性を認識する。巡礼者とは、円環的な時間の外に出て、誰もが徴候的にはそうであるそうした旅人になってしまった人間のことである。スペクタクルの社会 ギー・ドゥボール 木下誠訳 ちくま学芸文 2003 

 

血縁を元にした階層的な社会、地理と分業から対立する社会集団によって、ある偶像に多彩な意味が込められる。災害と内乱、流行り病と人口の増加から、一定の偶像は、複数の観念を取り込んだ結合点となる。西方の聖人、道教の仙人たち、道教の影響を受けた禅宗の僧侶を、同一と還元する行為は不適切である。禅宗の武道、衆道を含め、道は通じていると思われたために「道」である。コルネリウス・アウエハントの著作、『鯰絵―民俗的想像力の世界』では、「構造主義」を分析の方法として用いている。また、聖と俗という対立の図式を批判する。対立を批判した上で、俗を構造主義から述べるのを望めず、著者は著者の用いる方法を晒している。

  

 他方、留守神は、贅沢を嫌い、粗末な供物で満足したり、時にはケチであるとさえ言われている場合もある。郷田にならって言えば、この現象には人間と神の双方に対する「物忌」、つまり聖なる謹慎、命令と禁止、「禁忌」といった要素が含まれていることになる。したがって、新しい年の新しい収穫への期待が、持たざる者のよりよい未来への希求を代弁して、社会的不正や富める者の贅沢や不行跡を懲らしめる鯰のふるまいに極端な形で表現されている「新しい世」への—おそれおののきながらの—期待と結びつき、それが支配的な要素となっている可能性もおおいにありうることである。

 結論を言えば、留守神としての両義的なエビス、大黒、蛇神と魚、水神と山の神、雷神と荒神というこの文脈を背景にして考えるとき、地震鯰という形象は、十九世紀江戸の民族文化の中で神性を帯びていたばかりか、そのうえ留守神のもつ、予想できかつ納得のゆく両義的な役割さえ果たすようになったいたと言えるであろう。つまり、地震鯰は怪物にして神であり、破壊者であるにもかかわらず守護者というわけである。『鯰絵―民俗的想像力の世界』 コルネリウス・アウエハント 小松和彦中沢新一飯島吉晴、古家信平訳 せりか書房 1986年 164 

  

わたしは、零を含ませずに「自然」という言葉を使うのには、ためらいがある。自然という言葉は、初期道教以前に遡らねばならない。自然という言葉は、我々ならvoluntaly自発的に、unconsciously無意識に、などの意味を含みえた(『歎異抄』?)。文脈として「innate生来の」の意味が強調される事は極稀だっただろう。法律をプロイセン、フランスから組み立てた、明治初期の文人がアルファベットを並べたのは、彼らには(adequate妥当ー)proper正当な行為とだった(’valid’?)。浮世絵の遠近法を崩した浮絵の技法から、迷彩、キュビズムは引き出せない。親鸞の弟子たちは「念仏は行ではない」と述べている。わたしは判官びいきと勧善懲悪の結びつきを拒む。江戸の人々が金離れの悪さを嘲ったのは確かである。

 

 世俗的な表象を示している大津絵に関して言えば、元来「諺、よく知られた格言、日々の戒め」を絵で説くことが意図されており、しかもかなり諷刺的色彩が濃かった。しかしながら、十八世紀になると、教訓的で道徳的な傾向をもった絵の方が好まれるようになり、このことはその時期の大津絵の詞書にも強く表れてきている。 

……たとえば、寓話、諷刺、教訓あるいは道徳的な教えといったことでは、様々な格好の鬼や、雷神、猿、馬の図柄が、また、福神、さらには鬼を退治する鐘頄や天神様、弁慶、怪童金時などのような伝説上の人物が、なぜ大津絵にきわめて頻繁に登場するのかということを説明できないのである。『鯰絵―民俗的想像力の世界』 コルネリウス・アウエハント 小松和彦中沢新一飯島吉晴、古家信平訳 せりか書房 1986年 73頁

  

 黒い顔をした(多くの絵は弁慶の顔を黒く塗っている)醜い(弁慶の顔には6歳の時かかった疱瘡の跡が醜く残っていた)若者である弁慶は、記述の他の力持ちの怪童たちと多かれ少なかれ同じコースをたどることになる。鍛冶屋をやっていた祖父の家では、鉄床を地中に叩き込んでその怪力を示し、薪をとりに行けば松を根こそぎにしてもって帰った。

……その後、山伏のための弁慶の修業は、比叡山の荒僧たちの手によって続けられた。ここで弁慶は、彼の世話をしてくれる古参の僧で常陸海尊という、初めて手ごたえのあるライバルに出会うのである。そののち二人は義経に感じ入ってその指揮下に下り、主従最期の時までこの若い頭領に仕えることになるが、常陸海尊は弁慶の修業中、彼の申し分のない敵対者となった。その時代の常陸海尊は弁慶の鬼才のいうなれば悪の側面をあらわしていたかのようであった。『鯰絵―民俗的想像力の世界』 コルネリウス・アウエハント 小松和彦中沢新一飯島吉晴、古家信平訳 せりか書房 1986年 258頁

 

鹿島神宮は、茨城県南東部海沿いの、鹿島市宮中に位置し、タケミカヅチを祭神とする。タケミカヅチは、武神、雷神、火の神などを含み多様な性格が与えられ、

 

是を以ちて此の二はしらの神、
出雲国の伊那佐の小浜に降り至りて、
十掬剣を抜きて、
逆に波の穂に刺し立て、
その剣の前に跌み座して、

 

という記述で名を馳せている。『常陸国風土記』は、奈良時代初期の713年に編纂された。異民族の側の拠点の記録には、入植者の開拓地への記述を偲ばせる表現がある。世界の三層構造は古くから漢字に浸みこんでいる。東洋人は、それぞれに孤立した神秘の三一を神話化する。道教元始天尊太上道君太上老君神道天地開闢である。分離し、孤立させてこそ異教である。異教の神話構造は存外に精密である。人間の偉大と卑しさ、罪と悔悛を示さないために異教である。経済学者がモデルを売るように、江戸時代の庶民は、じゃんけんのような三すくみの構造を好んだ。嬰児殺しは、都市、農村共に頻繁に行われた。他界への憧れは水神と結びつく。えびすや山車についての研究は少ない。えびすを祀る神社は山岳、海辺が主である。祝祭の様相を帯びる各地のえびす講は、旧暦の水無月と神無月に集中する。民間伝承によれば日本各地から神々が集まる出雲では、翌年の予定、縁結びが会議にかかる。過発酵の恐れのない「醸成月」、酒造りの季節である。

  

 どのようにして地震が起きるかという疑問については、鹿島大明神の不注意とか無力、守護機能の不十分さによってではなく、神が留守の時に鯰が暴れるからとされるようである。日本では、10月には神々が出雲大社にお集まりになると広く信じられている。神々がこの期間「お留守」となり、したがって、神々がいない月ということから「神無月」と呼ばれている。
 そうした意味を成す版画2237(2238、2290、2300も参照)の詞書には次のように書かれている。

  神のお留守をつけ込んで、のらくら鯰がふざけだし、後の始末を改めて、世直し、世直し、建て直し……『鯰絵―民俗的想像力の世界』 コルネリウス・アウエハント 小松和彦中沢新一飯島吉晴、古家信平訳 せりか書房 1986年 40頁

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