紹介(3)『歴史・レトリック・立証』 カルロ・ギンズブルグ 

 ……アリストテレスが引き合いに出している暗黙の知識は、人がヘラスに所属するものであるということと結びついている。「だれもが」は「すべてのギリシア人」であるのであって、事実、ペルシア人はその知識からは除外されているのである。わたしたちが知っているように、ギリシア文明はペルシア人に対抗して、さらに一般的には蛮族たち〔ギリシア語を話さない諸民族〕に対抗して起ちあがることによって、自己を確立したのであった。しかし、アリストテレスは、これとはまた別のことをもわたしたちに告げている。『弁論術』において分析されている言説―公共の広場や法廷で話される言説―は特殊な共同体に差し向けられるものであって、理性的動物としての人間たちに差し向けられるのではない、というのがそれである。レトリックが作動するのは蓋然的なものの領域においてであって、科学的真理の領域においてではない。しかも、それは無邪気な自民族中心主義からさえもはるか隔たったところにあるごく狭く限られた視界の内部で作動しているのである。『歴史・レトリック・立証』 カルロ・ギンズブルグ 上村忠男訳 みすず書房 2001年 43頁

 

イザヤ書

(44:1)しかし、わがしもべヤコブよ、わたしが選んだイスラエルよ、いま聞け。

(44:2)あなたを造り、あなたを胎内に形造り、あなたを助ける主はこう言われる、『わがしもべヤコブよ、わたしが選んだエシュルンよ、恐れるな。

(44:3)わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。

(44:4)こうして、彼らは水の中の草のように、流れのほとりの柳のように、生え育つ。

(44:5)ある人は「わたしは主のものである」と言い、ある人はヤコブの名をもって自分を呼び、またある人は「主のものである」と手にしるして、イスラエルの名をもって自分を呼ぶ』」。

 
1872年アメリカのリーランド・スタンフォードの賭けから、エドワード・マイブリッジは連続写真を考案した。当初、マイブリッジは一台のカメラで、ギャロップする馬が四本の脚を浮かせている瞬間の実在の証明を試みた。農場での数十枚の撮影の末、彼は、宙に浮く馬の姿を捉えるのに成功した。「ねつ造である」「美的でない」などの批判から認められなかった。マイブリッジが農場に24台のカメラと助手を置いたのは、その8年後のことである。24台のカメラは、ギャロップする馬が四本の脚を浮かせている瞬間の実在を証明に成功した。

 
我が国の農業における家畜利用は、基本的に西日本では牛、東日本では馬を用いたとされている。中世、南部地方(現岩手県)の領主が東北アジア(ロシア、蒙古)から、数千頭の牛など家畜類を輸入した、という記録がある。民謡の『南部牛追唄』に歌われるように、鉱物の生産地である当該地方において、荷運びとしての役割が強く期待され、またそのように用いられたことは疑いない。

 
韃靼人を写す、という訳ではないだろう、廻る走馬燈の歴史は古く、great偉大なる中国が起源である。松明、太陽から伸びる影なら更に古いに違いない。松明と太陽、影は偉大なる中国が起源である。皿の上に脂を置き、棒で吊るせばよく廻っただろう。車輪から着想を得たというのが妥当である。車輪は橙から、雌ねじに雄ねじは無花果から着想を得た、と言うのは性急である。わたしは『トマト・クリニック』で産まれた。裏返し収納(の可能な)ぬいぐるみ、裏表生地のベスト、裏地に凝った江戸の着物はreversibleリバーシブルか。つまり、目的と適用された手段から同等、等価と言えなくてよいのか。

 

反射により写した像を利用する、調整が問題となるのだろう、カメラ・オブスクラは魔鏡と同様に中国が発祥である。アンリ・ルフェーブル記号学の領域の拡大に注目した。恋人に自らに逆らえないように魔術を用いるだろうか。何一つ喜べなくなるだろう。語りえぬことには沈黙しなくてはならない。「語る」が問題である。

 
著者のカルロ・ギンズブルグは、1939年イタリア、トリノユダヤ人家庭に生まれる。1961年にピサ大学で博士号を取得し、ボローニャ大学、次いで1988年にカリフォルニア大学に移っている。本著作は1999年発刊である。初期の著作『チーズとうじ虫―16世紀一粉挽屋の世界像』などでは、多量の文献資料の調査から対象(共同体・出来事・個人)の心性、その受容などの構成を試みている。カリフォルニア大学への移転後、著作は歴史学の(表現)(希)method方法(ーprocess過程)へより重きを置いている。

 

本書では、アリストテレスイエズス会士、フローベールなどを考察し、歴史記述とレトリックの連続(性)、また、歴史記述者の間の用語の理解の隔たりを論じている。リュシアン・フェーヴル(1878~1956)は、旧来の歴史学が文献資料のみに依拠している、依拠するものだ、と批判し、新たな歴史学の構想した。ここでは歴史資料範囲の拡張(統計学、地理学、詩、絵画)、歴史記述の方法の柔軟な導入を含む主題史などが提唱される。フェーヴルが『経済社会学史年報』を発刊したの1928年のことである。

 

当時、民俗学、人類学は隆盛である。フランスにおける新たな歴史学は、アナール学派命名され、フェルナン・ブローデル(1902~1985)が所属するとされる。柳田國男は1904年、29歳の時に結婚し、6年後の1910年に『遠野物語』を発表した。これは柳田國男が35歳になったときのことである。1858年ダーウィン自然選択説を述べだしてまもなく、ロンドンのテムズ川では大悪臭が発生した。数年後の横浜居留地において、瘴気に関する記述が残されている。明治維新前後の日本では、翻訳著作をばらまいていた。欧米の批判を受け、1886年にはベルヌ条約に加盟する。1891年にトーマス・エジソンがキネト・スコープを発明し、「映画」と表現される連続投影の歴史が始まった。

 

1903年にはライト兄弟が有人動力飛行に成功する。これは、1828年生まれのフランス人作家ジュール・ヴェルヌが、1865年に小説『月世界旅行』を発表してから38年後のことだった。『月世界両行』が無声映画化されたのはライト兄弟の有人飛行の2年前のことである。1913年には、24歳のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが、学位論文の注の有無で大学に抗議している。第一次世界大戦は、1914年から1918年のことだった。経済の中心はアメリカに移り、ラジオ・洗濯機・自家用車などが普及する。旅客機が贅沢なものとはいえ、民間への利用に開かれたのは1930年代に入ってからである。1936年、ドイツのベルリンにて、約二週間かけて第11回オリンピック競技大会は行われた。第二次世界大戦は1939年から1945年のことだった。アルベルト・アインシュタインの舌を出した写真は第二次世界の終結から6年後、1951年に撮られたものである。

  

 (276)ロアネーズの殿は、よく言っていた。「理由はあとからやってくるのだが、はじめは理由がわからないのに、あることが私の気に入ったり、気にさわったりする。それなのに、それがわたしの気にさわるのはあとになってしかわからないその理由のためなのだ」だが、私の思うにはあとになってその理由のためなのではなく、気にさわるからこそ、その理由が見つかるのだ。『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一、由木康訳 中央公論社 1978年

 

数人の研究者の関心と、研究のprocedure手順は、研究者の生活、経歴、environment環境に影響を受ける。研究(部分ー全体)と、研究の受容の理解はessential肝要である。技術史において、電信、運輸がimportant重要である。発明、普及の区別はnecessary必要となる。未完の著作、翻訳の予想、作者の各著作を連続していると考えている場合がある。研究者は「writing(ーproduction)著作」を物すまで研究している。「研究」に入るまでの初等教育は様々である。「先行研究」は存在する。頗る面倒な事に、著作を書いた後、即時に研究者が亡くなる事は少ない。

 

研究は基体の都合から、研究者が有意義だと考える何かを対象にする。社会に役立つと思ってこそである。後の研究者は、その研究者本人ではない。概して、都合のよい部分を引用する。ある学派とある学派の比較ー競争で、差異を示さなくてはならない場合に顕著である。ヘーゲル学派の誰かが、ギリシア風に「ヘーゲル」の後を継ぎ、活動しようとすることはない。困った事に著作は遺書ではないため、相続人、相続割合が記されることは少ない。親ⅰ・子ⅰ(親ⅱ)・孫(子ⅱ)の関係で、子ⅱは、一人の子ⅰである親ⅱという発想が愉快ではないのか、手間なのか拒む傾向がある。学派をmolded形づくった際に顕著である。

f:id:cunsong9403:20180718164813j:plain