紹介(4)『歴史・レトリック・立証』 著:カルロ・ギンズブルグ o

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(・・・・・・中略)アリストテレスが引き合いに出している暗黙の知識は、人がヘラスに所属するものであるということと結びついている。「だれもが」は「すべてのギリシア人」であるのであって、事実、ペルシア人はその知識からは除外されているのである。わたしたちが知っているように、ギリシア文明はペルシア人に対抗して、さらに一般的には蛮族たち〔ギリシア語を話さない諸民族〕に対抗して起ちあがることによって、自己を確立したのであった。しかし、アリストテレスは、これとはまた別のことをもわたしたちに告げている。『弁論術』において分析されている言説―公共の広場や法廷で話される言説―は特殊な共同体に差し向けられるものであって、理性的動物としての人間たちに差し向けられるのではない、というのがそれである。レトリックが作動するのは蓋然的なものの領域においてであって、科学的真理の領域においてではない。しかも、それは無邪気な自民族中心主義からさえもはるか隔たったところにあるごく狭く限られた視界の内部で作動しているのである。

『歴史・レトリック・立証』 カルロ・ギンズブルグ 上村忠男訳 みすず書房 2001年 43頁

 

 


  1872年アメリカのリーランド・スタンフォードの賭けから、エドワード・マイブリッジは連続写真を考案した。当初、マイブリッジは一台のカメラで、ギャロップする馬がその四本の脚を浮かせる瞬間があることを証明しようとした。農場での数十枚の撮影の末、彼は、宙に浮く馬の姿を捉えるのに成功したが、「ねつ造である」「美的でない」などの批判から認められることはなかった。マイブリッジが農場に24台のカメラと助手を置いたのは、その8年後のことである。

 


 我が国の農業における家畜利用としては、基本的に、西日本では牛を、東日本では馬を用いたという。霜の降りた田んぼに一匹たたずみ、氷を踏んでいる牛の姿は但馬や奈良、滋賀などの山間地のものだろう。中世において南部地方(現岩手県)の領主が東北アジア(ロシア、蒙古)から、おそらく誇張だろうが数千頭の牛など家畜類を輸入したと記録されている。民謡の「南部牛追唄」に歌われるように、鉱物の生産地である当該地方において、荷運びとしての役割が強く期待され、また、そのように用いられたのは疑いのないことである。

 


 韃靼人を写す、というわけではないだろうが、廻る走馬燈の歴史は古く、中国が発祥である。松明と太陽から伸びる影なら、もっと古いに違いない。皿の上に脂を置き、棒で吊るせばよく廻ったろうが、車輪から着想を得たというのが妥当である。車輪と橙、無花果と雌ねじに雄ねじ、林檎は横に切ると星型に見え、縦に切ると女性器に見えて卑猥である。ポケットモンスターのファスナーの付きモンスターボールのぬいぐるみに適切な表現は、「リバーシブル」か、または、「天地無用」か、などなど。

 


 反射により写しだした像を利用する―つまり、ここでは故意と制御が問題となる―カメラ・オブスクラは、例によって、中国が発祥である。天地は、卵が割れて白身が空となり黄味が大地となり、だれかの頭蓋を斧でたたき割り脳漿が飛び散って、うんぬん。母は産婦人科「トマト・クリニック」でわたしを出産したらしい。語りえぬことには沈黙しなくてはならない。わたしも権威の下にあるものですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりのもの『行け』と言えば行き、ほかのものに「こい」と言えばきますし、また、しもべにこれをせよと言えばしてくれるのです。

 


 著者のカルロ・ギンズブルグは、1939年イタリア、トリノユダヤ人家庭に生まれる。1961年にピサ大学で博士号を取得し、ボローニャ大学、次いで1988年にカリフォルニア大学に移っている。本著作は1999年発刊である。初期の著作『チーズとうじ虫――16世紀一粉挽屋の世界像』などでは、多量の文献資料の調査から対象(共同体・出来事・個人)の心性、その受容などの構成を試みている。カリフォルニア大学への移転後、著作は歴史学の手法へより重きを置いたものとなっている。

 

 

 本書ではアリストテレスイエズス会士、フローベールなどを考察し、歴史記述とレトリックの連続性、また、歴史記述者それぞれでの語の理解・用法の隔たりを論じている。リュシアン・フェーヴル(1878~1956)は、旧来の歴史学が文献資料のみに依拠するものと批判し、新たな歴史学の構想した。ここでは歴史資料範囲の拡張(統計学・地理学・詩・絵画など)、歴史記述の方法の柔軟な導入を含む主題史などが提唱される。フェーヴルが『経済社会学史年報』を発刊したの1928年のことである。

 

 

 この時代、民俗学・人類学はまだ隆盛であった。フランスにおける新たな歴史学は、アナール学派と表現され、フェルナン・ブローデル(1902~1985)などが所属するとされる。柳田國男は1904年、彼が29歳の時に結婚し、6年後の1910年に『遠野物語』を発表したが、これは彼が35歳になったときのことである。1858年ダーウィン自然選択説を述べだしてまもなく、ロンドンのテムズ川では「大悪臭」が発生した。数年後の横浜居留地においても、「瘴気」に関する記述が残されている。明治維新後の日本では、(と言っても1868年以前から)好き放題に翻訳著作をばらまいていたようだが、欧米の批判を受け、1886年にはベルヌ条約に加盟する。1891年にトーマス・エジソンがキネト・スコープを発明し、「映画」と表現される連続投影の歴史が始まった。

 

 

 1903年にはライト兄弟が有人動力飛行に成功している。これは1828年生まれのフランス人作家のジュール・ヴェルヌが、1865年に小説『月世界旅行』を発表してから38年後のことだった。『月世界旅行』が無声映画化されたのはライト兄弟の有人飛行の2年前のことである。1913年には、24歳のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが学位論文の注の有無でごたごたしている。第一次世界大戦は、1914年から1918年のことだった。経済の中心はアメリカに移り、ラジオ・洗濯機・自家用車などが普及する。旅客機が贅沢なものとはいえ、民間への利用に開かれたのは1930年代に入ってからである。1936年、ドイツのベルリンにて、約二週間かけて第11回オリンピック競技大会は行われた。第二次世界大戦は1939年から1945年のことだった。量子論を展開したデンマーク人のニールス・ボーアは、太極図に興味を持ち、その晩年には中国の易経など東洋哲学を研究している。アルベルト・アインシュタインの舌を出した写真は終戦から6年後、1951年に撮られたものである。

 

 

 

(276)ロアネーズの殿は、よく言っていた。「理由はあとからやってくるのだが、はじめは理由がわからないのに、あることが私の気に入ったり、気にさわったりする。それなのに、それがわたしの気にさわるのはあとになってしかわからないその理由のためなのだ」だが、私の思うにはあとになってその理由のためなのではなく、気にさわるからこそ、その理由が見つかるのだ。

 

『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一・由木康訳 中央公論社 1978年

 

 

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