紹介(5)『ワット』 サミュエル・ベケット 

 ワットがたとえば真東に進むときの歩き方はこうであった。まず上半身をできるだけ北へ向け、同時に右脚をできるだけ南へほうり出す、次に上半身をできるだけ南へ向け、同時に左脚をできるだけ北へほうり出す、つぎに上半身をできるだけ南に向けて、左脚をできるだけ北にほうり出す、といった調子で、何回も何回も、目ざすところに到着して腰を下ろすことができるまで、これを繰り返すのである。…… 『ワット』 サミュエル・ベケット 高橋康成訳 白水社 2001年 37頁

 

 (244)誰かが「わたしには身体がある」と言うならば、われわれはこう問い返してよい。「その口で話しているのはいったい誰なのだ。」 

(263)学童は自分の先生と教科書を信じるのだ。

(378)知識の究極の根拠は承認にある。

(383)「わたしは夢を見ているのかもしれない」という議論はつぎの理由によって無意味である。もし夢みているとすればこの言葉もまた夢中のことであり、これらの言葉に意味があるという、そのことも同様である。『ウィトゲンシュタイン全集9 確実性の問題』 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 黒田亘訳 大修館書店 1975年

 

怪物の想像には、(ⅰ)何かを過剰に置く(ⅱ)何かを過少に置く(ⅲ)何かを置換する、という3つの区分がappropriate適切である。四本、六本、八本脚の怪物は散見される。単眼や奇数足は、王、異民族ともに人間を表す、と考えるのは性急である。宦官は、捕虜、奴婢の性器の切除に始まるとされる。時代は下り、商才豊かな宦官の父親は子を去勢し、更に、自らに去勢を施す。切り取った性器は、宝と呼ばれ、死後に遺体と共に埋葬された。

 

太陽と関わり、東アジア、北欧その他の地域で、三本足の鳥の伝承が記録されている。時代と地域ごとの惑星の順序の知識を述べるのは難しい。文明の初期において、確かに、太陽の黒点と水星が混同があった。ハゲタカはギリシア、ローマの伝承においては占いの鳥とされている。

 

中国において「不可能事(ー無理筋)」を意味した「鶏姦」は、日本においては珍しいことではなく「衆道」の意味を与えられた。つまり、中国においては、人間の特有の地位が意識されていた。日本においては、総排卵口と飛翔能力が意識されていた。ところで、女神は糞をしない。女神は食物を摂り子を多いに生む。iustitiaは糞をしなかった。ローマのiustitiaが糞するとはとんでもないことである(ロボトミー?)。日本神話のオオゲツヒメは口、耳、尻などから食物を取り出す。女神の糞が見つかったら、女神の糞と判定する根拠のどれかが間違っていたのである。尼さんの屁はおやつである。釈迦の老廃物には神秘的な効果が認められていた。

 

 明治以前の国内の馬は小さい。開国以前の日本が悪習の巣窟だった、とするのは性急である。江戸時代、一部の寺は鐘を鳴らし時間を知らせる役を担った。明治初期から日本各地で正午を告げる午砲が制度化される。午砲は機関車や時計と同様に明治期文学にしばしば現れる。生活用品の素朴な擬人化、卑猥な石像は広く見られた。野ざらしの人の彫像を拝む悪習は無かった。人間を崇拝する際には、「特定の人間は人間ではない」とする手続きが必要だった。

 

 日清戦争日露戦争の勝利後、国威発揚のためか、日本各地で銅像が設置される。1934年、各所から寄付を募り東京大学農学部教授の飼い犬、忠犬ハチ公像が立てられた。四足獣への礼拝が始まった。ローマのカリギュラは自分の像を立てさせ、自らが前日に着ていた服を像に着せたという。至る経緯、犬の心情は諸説喧しいので割愛する。原型となるハチが生存中に、またハチの前で公開されるなど、多重types形象が生じていた。


The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.天皇は日本国民統合の象徴であり、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。unityを「統合」と訳すとは意外である。「統合」なら、integrationに思える。総意についてはよくわからない。おそらく、State国家のstatus状態に似ており、地位は「日本国民の総意に基づく」のだろう。魔法の十徳ナイフを思わせる構造である。常に、二転三転して、上下内外が組み換わる。ともすれば、怪しげな神官と、体調不良の結果として天災が起きる、という神託になりかねない。解釈なくしては、国家と酔っぱらった猿の群れの区別がつかないだろう。日の丸は猿の尻と受け止められかねない。心温まる子どものほっぺか、潔白と廉恥心くらいまで持ち上げねばならない。

 

 ここに我々は双生化を認めることが可能であり、これはある種の二重的存在者を示唆しているのである――すなわち、ここに見られる人間=神の二重化は、コンスタンティヌスと〈敗北することなき〉太陽神を相互に交換可能な形象として示し、支配者の可死的で人間的な身体と、これに随伴する超身体―神なるがゆえに不可死で神聖な超身体―とを同時に表示するのである。 『王の二つの身体 中世政治神学研究』エルンスト・カントロヴィチ 小林公訳 平凡社 1992年 493頁

 

 ときにはワットは迅速に考えをめぐらすことができた、ほとんどナッキバル氏と同じくらいに迅速である。また時には彼の思考はあまりにゆっくりと動いたので、まるで動かないでじっとしているかのように見えた。とはいってもそれは、ガリレオの揺り籠のように確かに動いていたのである。この違いぶりをワットは我ながらもひどく気にしていた、実際、気にするだけの理由はあった。『ワット』 サミュエル・ベケット 高橋康成訳 白水社 2001年 152頁

 

秦王朝の滅亡後の紀元前202年、楚漢戦争において、項羽の死には王者の格に相応しく虞美人と騅が道連になったという。京劇の流行とともに潤色されたのだろう、司馬遷の『史記』では、虞美人と騅に関する記述は僅かである。虞美人の出所、年齢は不明であり、自決した、というのが一般的である。騅は葦毛(青みがかった灰色)の馬である。船での逃亡の申し出を断り、騅の道連れを惜しみ、項羽は人に与えた。騅は別れた後に長江に飛び込んだ、というのが一般的である。幕末の横浜居留地にて同国人の亡骸を船で運送する華僑の姿が記録されている。「名」は、暗い夕暮れ時に道で会い、自分の名を告げるから「名」であるという。名は、「夕」が肉、「口」が器で祭儀の意味だという。「疑」は、十字路にとどまる人と獣である。

 

  ……そこでマガショーン氏はオメルドン氏のほうに向き直ったのに、オメルドン氏は期待に反してマガショーン氏を見つめておらなんだ(期待ちゅうたわけはじゃ、マガショーン氏は、自分がオメルドン氏を見つめようと向き直ったときにオメルドン氏が自分を見つめとるんじゃないかともし期待しとらなかったら、きっとオメルドン氏を見つめようと向き直りはしなかったじゃろう、それよりも首を前に出すか、後ろへ引くかして、マックスターン氏かデ・ベイカー氏を見つめとったじゃろう。まあマックスターン氏のほうじゃろうな、デ・ベイカー氏を見つめたのは最近じゃったから)、オメルドン氏はマックスターン氏が自分を見つめとるんじゃないかと思ってそちらを見とったんじゃ。してこりゃまことに自然なことじゃった。なぜかてオメルドン氏がマックスターン氏を見つめたのはオメルドン氏がほかのだれを見つめたのよりも以前のことじゃったからな、それにマックスターン氏がオメルドン氏を見つめたのはマックスターン氏がほかのだれを見つめたのよりも最近のことじゃとはオメルドン氏としては知るよしもなかった、じゃが実はマックスターン氏はたったいまオメルドン氏を見つめるのをやめたばかりじゃった、そうじゃろう? そこでオメルドン氏の期待に反してマックスターン氏はオメルドン氏を見つめとらずに、デ・ベイカー氏が自分を見つめとるんじゃないかと思ってそちらを見つめとった。…… 『ワット』 サミュエル・ベケット 高橋康成訳 白水社 2001年 210頁

 

ルカによる福音書
(6:39)イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引きができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。


マタイによる福音書
(6:34)だからあすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である。


レビ記
(19:9)あなたがたの知の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈り入れの落穂を拾ってはならない。

 

 (61)順序。 私はこの論述を次のような順序で始めることも、あるいはできたであろう。あらゆる境遇のむなしさをを示すために、普通の生活のむなしさ、ついで懐疑論およびストア派の哲学的生活のむなしさを示すのである。しかし、この順序は守られないであろう。わたしは順序というものがどういうものであるか、そしてそれを理解している人がいかに少ないかということを、いささか心得ている。人間的な学問は一つとしてそれを守ることができない。聖トマスはそれを守らなかった。数学はそれを守るが、その深みにおいて無益である。
(499) 外的行為。 神と人とに喜ばれるほど、危険なことはない。なぜなら、神と人とに喜ばれる状態は、神に喜ばれることと人に喜ばれることとの、別々のものから成っているからだ。聖テレサの偉大さなどは、それである。神に喜ばれたのは彼女が啓示を受けたときの深い謙虚であり、人に喜ばれたのは、彼女の知恵である。そこで、人は彼女の状態にならうつもりで、彼女のことばをまねるのに懸命であるが、それほど神に愛されるものを愛し、神に愛される状態に身を置こうとしない。 『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一、由木康訳 中央公論社 1978年

 

終えるべきに、終えられない。万事はそのままに進行する。人は読めない本を読み、理解していない言葉を用いる。

オールコックの著作『大君の都』には、猿回し、独楽を用いた曲芸を披露する香具師の姿が記録されている。

ベルトルト・ブレヒト(1898~1956)は、その演劇論の中で「Distancing effect異化効果」を述べた。

アケメネス朝ペルシャの初代国王キュロス2世(B.C.600~B.C.529)は、彼の広大な王国の各州にサトラップを設置した。

日本茶業中央会は、抹茶の定義を「覆い下で栽培された生葉を揉まないで乾燥した碾茶を茶臼で挽いて微粉状に製造したもの 」とした。

ラドヤード・キップリングは、短編『橋を造る者たち』に、ガンジス河に橋を架けようとし、完成間近に洪水に見舞われアヘンを摂取する主人公を描いた。

linkageリンケージは、リンクもしくは節と呼ばれる変形しない物体が、可動部分(ジョイント、関節)で接続され、一つ以上の閉路を構成する物である。

銀板写真1839年、Louis Jacques Mandé Daguerreルイ・ジャック・マンデ・ダゲールにより発明された。

江戸時代の日本において、男女の双子は、心中した男性と女性の生まれ代わりであるとして忌まれた。

鼎は、中国古代の祭祀において、生贄の肉を煮るための三本足の器物であり、王者の権威の象徴とされている。

京都市左京区臨済宗南禅寺水路閣1888年明治21年)に造られた。同地境内には日本初の公立精神病院が設置された。

アレクサンドリアのヘロンの風力オルガンは世界初の風力機械とされている。

ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『夏の夜の夢』では、ロバの頭をかぶせられた職工Nick・Bottomニック・ボトムに、妖精の女王ティターニアは魔法によって恋に落ちる。

1906年アメリカ海軍中尉チャールズ・ツィマーマンは、行進曲“Anchors Aweigh” 『錨をあげて』を作曲した。

筮竹とは、(中国の)易占において用いられる50本の竹ひごのような物である。古代には、マメ科ハギ属のメドハギを用いたとされている。

将棋の桂馬、チェスのナイトは、移動するときに他の駒を跳び越す。

 

 つぎには、ゆっくりと、壁から横顔を見せて野原に立っている馬ジョスの大きな色つき写真が現れた。ワットは、まず野原を、つぎに馬を、つぎに、偉大な ? の署名のおかげで雄馬ジョスを認めた。四つの蹄をしっかりと地面に踏ん張り、頭をがっくり下に垂れたこの馬は、草を見つめているくせに食欲は全然ないといったふうに見えた。ワットは首を前に伸ばして、それが本当に馬であって、雌馬や去勢馬ではないかどうかを確かめようとした。しかしこの興味のある情報は、血筋がいいというよりは行儀がいいという感じの尻、または尻尾で、隠されていてきわどいところで見えなかった。『ワット』 サミュエル・ベケット 高橋康成訳 白水社 2001年 280頁 

f:id:cunsong9403:20180704162437j:plain