紹介(8) 『ワット』 著:サミュエル・ベケット i

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 終えるべきところで終えられないので、万事はそのまま進行する。

 

 ルカによる福音書(6:39) 盲人は盲人の手引きができようか。

 

 マタイによる福音書(6:34)あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。

 

 「なろうとさえ思えば司祭になれること、ヤラベアム治下のようである。」

 

 オールコックの著作『大君の都』には、猿回し、独楽を用いた曲芸を披露する香具師の姿が記録されている。

 

 ベルトルト・ブレヒト(1898~1956)は、その演劇論の中で「Distancing effect異化効果」を述べている。

 

 アケメネス朝ペルシャの初代国王キュロス2世(B.C.600~B.C.529)は、彼の広大な王国の各州にサトラップを設置する。

 

 ラテン語の成句に「nani gigantum umeris insidentes 巨人の肩の上にのる矮人」という比喩がある。

 

 「饅頭」は、三世紀中国において、蜀の諸葛孔明が、人身御供の風習を止めさせるため、小麦の皮に肉を詰めて川に投げたのが起源と言われている。

 

 日本茶業中央会は、抹茶の定義を「覆い下で栽培された生葉を揉まないで乾燥した碾茶を茶臼で挽いて微粉状に製造したもの 」と言っている。

 

 ラドヤード・キップリングの短編『橋を造る者たち』には、ガンジス河に橋を架けようとし、完成間近に洪水に見舞われ、アヘンを摂取する主人公が描かれている。

 

 「linkageリンケージ」とは、リンクもしくは節と呼ばれる変形しない物体が、ジョイントもしくは関節と呼ばれる可動部分により接続され、一つ以上の閉路を構成するものであると言われている。

 

 『封神演義』にも現れる太公望は、釣り餌をつけない釣り針を川の水面よりも上に垂らし、噂を聞きつけた周の文王に見いだされた、と言われている。

 

 銀板写真1839年、Louis Jacques Mandé Daguerreルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが発明・発表したとされている。

 

 江戸時代の日本において、男女の双子は、心中した男性と女性の生まれ代わりであるとして忌まれたという。

 

 カール・マルクスは、彼の著作『経済学批判』の中で、「(・・・・・・中略)商品としての使用価値の定在が象徴でないのと同じように、貨幣も象徴ではない。(・・・・・・中略)価値章標は、直接にはただ価格商標であり、したがって金章標であり、ただ回り道をして商品の価値章標であるにすぎない。金はペーター・シュレミールのようにその影を売ってしまったのではなく、自分の影で買うのである。だから価値章標は、過程の内部で一商品の価格を他の商品にたいして代表し、あるいはどの商品保有者にたいしても金を代表するかぎりでだけ作用するにすぎない。」と述べている。

 

 旧約聖書レビ記』19章9節には、「あなたがたの知の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈り入れの落穂を拾ってはならない」とある。

 

 「鼎(かなえ)」は、中国古代の祭祀において、生贄の肉を煮るための三本足の器物であり、次第に王者の権威の象徴とされいったと言われている。


 京都市左京区臨済宗南禅寺水路閣1888年明治21年)に造られた。同地境内には日本初の公立精神病院が設置されたと言われている。

 

 アレクサンドリアのヘロンの風力オルガン(organ)は世界初の風力機械とされている。

 

 シェイクスピアの戯曲『夏の夜の夢』では、ロバの頭をかぶせられた職工Nick・Bottomニック・ボトムに、妖精の女王ティターニアは魔法によって恋に落ちる。

 

 1906年アメリカ海軍中尉Charles A. Zimmermannチャールズ・ツィマーマンは、行進曲“Anchors Aweigh” 『錨をあげて』を作曲した。

 

 マタイによる福音書5章37節には、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」とある。

 

 筮竹とは、(中国の)易占において用いられる50本の竹ひごのようなものである。古代には、マメ科ハギ属のメドハギを用いたと言われている。

 

 将棋の桂馬、チェスのナイトは、移動するときに他の駒を跳び越すことが許される。

 

 ペルガのアポロ二ウス(B.C.262~B.C.190)が、その著作において提起した問題は、「アポロ二ウス接触」として知られている。

 

 

(61)順序。 私はこの論述を次のような順序で始めることも、あるいはできたであろう。あらゆる境遇のむなしさをを示すために、普通の生活のむなしさ、ついで懐疑論およびストア派の哲学的生活のむなしさを示すのである。しかし、この順序は守られないであろう。わたしは順序というものがどういうものであるか、そしてそれを理解している人がいかに少ないかということを、いささか心得ている。人間的な学問は一つとしてそれを守ることができない。聖トマスはそれを守らなかった。数学はそれを守るが、その深みにおいて無益である。
(499) 外的行為。 神と人とに喜ばれるほど、危険なことはない。なぜなら、神と人とに喜ばれる状態は、神に喜ばれることと人に喜ばれることとの、別々のものから成っているからだ。聖テレサの偉大さなどは、それである。神に喜ばれたのは彼女が啓示を受けたときの深い謙虚であり、人に喜ばれたのは、彼女の知恵である。そこで、人は彼女の状態にならうつもりで、彼女のことばをまねるのに懸命であるが、それほど神に愛されるものを愛し、神に愛される状態に身を置こうとしない。


『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一・由木康訳 中央公論社 1978年

 

 

 

 つぎには、ゆっくりと、壁から横顔を見せて野原に立っている馬ジョスの大きな色つき写真が現れた。ワットは、まず野原を、つぎに馬を、つぎに、偉大な ? の署名のおかげで雄馬ジョスを認めた。四つの蹄をしっかりと地面に踏ん張り、頭をがっくり下に垂れたこの馬は、草を見つめているくせに食欲は全然ないといったふうに見えた。ワットは首を前に伸ばして、それが本当に馬であって、雌馬や去勢馬ではないかどうかを確かめようとした。しかしこの興味のある情報は、血筋がいいというよりは行儀がいいという感じの尻、または尻尾で、隠されていてきわどいところで見えなかった。


『ワット』 サミュエル・ベケット 高橋康成訳 白水社 2001年 280頁

 

 

 

 読めないが読み、読んだと言う。
 商才とは想像力である、遺憾ながら。

 

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