紹介(7) 『文明化の過程』 ノルベルト・エリアス 

(194)今日、スペクタクルの思考として発展し続けている知識の全体は、正当性のない社会を正当化し、虚偽意識の一般的科学として自らを構成せざるを得ない。この思考は、スペクタクルのシステムの中にある自らの物質的基礎を思考できず、思考したいとも思ってもいないという事実に、完全に条件づけられている。
(195)外観を社会的に組織する思考はそれ自体、それが擁護する低ーコミュニケーションの一般化によって蒙昧化する。この思考は、自らの世界のあらゆるモノの起源には衝突があったのだということを知らない。スペクタクルの権力――応答なきその言語システム内部の絶対権力――の専門家たちは、軽蔑と軽蔑の成功を経験することによって、絶対的に腐敗した。『スペクタクルの社会』 ギー・ドゥボール 木下誠訳 ちくま学芸文庫 2003年

 

 社会学上の最初の偉大な先駆的業績が生み出された十九世紀の工業化社会においては、この世紀の間に、新興産業階級の社会的信条、理想、長期的目標と希望を表現する声が、旧来の宮廷王朝的・貴族的もしくは門閥的権力エリートの意志に即して、現存社会秩序の維持・保存を目指す声に比し、「時代の合唱」の中で漸次強さを増しつつあった。前者は新興階層としての彼らの状況にふさわしく、大きな期待をこめてよりよき未来を待望していた。『文明化の過程 上』 ノルベルト・エリアス 赤井慧爾、中村元保吉田正勝訳 法政大学出版局 2004年 19頁

 

社会学は、フランス革命後の市民社会国民国家の制度設計、制度の評価に始まる。領域設定からし社会学は特定の個人の著作を強調することができない。哲学の領域設定は「超越的な個人の思考に可能なこと」だろう。科学の哲学は必要と出来る。数学の/に哲学は含められる。哲学の数学は空虚である。社会科学で用いている便利な表現、「phenomenon現象」は、科学者が分析の対象とするため「objectivity客観性」を有し、そのため科学者の分析の対象になる、とするのがappropriate適当である。

 

ノルベルト・エリアスは、「turning point転機」「a diverging point分岐点」の重要性を認めた。おおよそ、turningと見えるところはcriticalである。point点は、ともすれば、時間軸を(/が)前提にする(/されている)。アレキサンダー大王の征服から、ギリシアの都市の建築はtranslation変化(ーconversion転換)した。ヨーロッパの転機がフランス革命からナポレオン体制と第一次世界大戦であり、日本の転機が明治維新第二次世界大戦だったことに、疑問の余地はない。人は相当な期間に継続した現象、出来事を「点」として表現する。或る存在のnaming命名行為、nominalization名詞化に伴う圧縮はこれを可能とする。アリストテレストマス・アクィナス、イマニュエル・カント、カール・マルクスの体系の著作を、多くの者が目を通したのは疑えない。

 

  確かに逆行的な強い変動があることも考えられないことではない。たとえば、すでに第一次世界大戦での生活様式は、平和な文明においてゆるやかな、もしくは厳しいタブーであったものをやむなく打ち破った、ということはよく知られている。塹壕の中では将兵ともに、やむを得ない場合は、再びまたナイフと手で食事をした。不快感を感じる範囲が、避けることのできない状況のために、かなり急速にずれていったのである。『文明化の過程 上』 ノルベルト・エリアス 赤井慧爾、中村元保吉田正勝訳 法政大学出版局 2004年 267頁

 

 西欧の精神的発展について書かれた伝統的な記述を通読してみると、しばしばその著者たちが何か漠然とした形で、西欧の歴史において意識が合理化され、呪術的=伝統的思考形式が合理的思考形式へ変化した原因は、一連の天才的な、特別賢明な個人たちの出現にあるのだ、という考えをもっているような印象を受ける。

……
 本書では見方が違う。西欧の偉大な思想家たちが残した業績は確かに小さくはない。かれらは同じ世代の人たちが日常の行動で見聞してはいるが自分自身でじっくりと考えて、明確に、そして完全に自家薬籠中のものにできなかったものを、堂々とした、纏まった、模範的な言葉で表現したのである。社会の仕組みの広範囲な構造変化によって徐々にでき上がったより合理的な思考形式を純化し、その助けを借りて人間存在の根底にまで突き進もうとした。他の人たちに彼らの住んでいる世界と彼ら自身について、より明確な知識を伝えたのである。そういうわけで、かれらはかなり巨大な社会機構のなかで、同時に梃子(てこ)の腕木としてその動きに関与した。かれらはその偉大さならびに個人的立場に従って、規模の大小はあっても集団の解説者であり、代弁者だったのである。しかし彼らはその社会に流行していた思考形式の創始者ではなかったし、われわれが「合理的思考」と名づけるものの創始者でもなかった。『文明化の過程 下』 ノルベルト・エリアス 波田節夫、溝辺敬一、羽田洋、藤平浩之訳 法政大学出版局 2004年 417頁 

 

プラトンとちがって、アリストテレスは「現に目の前に現れていることがらを肯定的に措定する」ところからはじめて、人々から高く評価されているもろもろの前提から出発する方法を選んだ。そうした前提とは、ギリシア人の大多数、もしくは彼らの中で事情に精通している人々(専門家、分別ある人)の意見に徴して、当該問題にとって有効もしくは有用と見なされていたものである。アリストテレスがこのような一般に受容されていた見解を最終的には修正するという場合もあるし、それにはそれなりの意義があるのだけれども、ここでの問題に関する限り、彼はそのような修正をしていない。おそらく異民族の問題の場合、特別な経験、専門知識、ないし知性をもちあわせなくても、彼らとは何者であるかを理解することはできたのであろう。ようするに異民族であるということは、せんじつめれば、気質と知性の(悪い)組み合わせに還元されたのである。 『古代ギリシア 自己と他者の肖像』ポール・カートリッジ 橋爪弦訳 白水社 2001年 81頁

 

われわれは、どんなものにも その起源はただひとつしかなかったに相違ないと考えがちであるが、いやしくも科学的理論、その発見と考察に関するかぎりでは、完全に独立し、並行する思想的系譜が2つ以上の地域に実在した可能性を、避けるわけにはいかない。『中国の科学と文明 第一巻 序編』 ジョゼフ・ニーダム ――訳 思索社 1991年 149頁 

 

墨家がここで、科学的な推論のさまざまな形式を定義しようと試みていることは、きわめて明白である。不幸にも、彼らはいわば模索中なのであり、、われわれは常にその原文に信を置けないことを勘定に入れなければならない。

……

(3) ’モデル思考’(model-thinking)は、(大自然の)方法を手本とすることにより成り立つ

 ’モデル思考’において手本とされるものが、方法である

 ゆえに仮にもしその方法が真に’モデル思考’によって手本とされる(文字どおりにいえば、その中心に当たる)ならば、推論は必ず正しくなる。

 しかし、もしその方法が真に’モデル思考’により手本とされないならば、推論は必ず不正となる。これが’モデル思考’である。

 

 このようにすれば、認識される原因の数は大量の現象よりずっと少なくなるので、このモデル思考は実際上演繹となるのである。

 このようなモデル思考に関する墨家の議論が、特に(しかしそれだけではないが)比較的精度の劣る科学において、科学的’モデル’の論理をめぐって交わされている当代の論議で進展されつつある考察と強い類似性を有していることは、必ずや読者の注意を引くに違いない。『中国の科学と文明 第二巻 思想史 上』 ジョゼフ・ニーダム ――訳 思索社 1991年 149頁

 

(mother/actual/great) natureと、supernatural超自然の関係を考えねばならない。愛は超自然である。現代において、科学者は科学的思考を示せない。「これだ」と言うのみである。社会の支配的な潮流に従うことは人々を感動させる。キリスト教徒を名乗り戦地に向かう者はいた。彼が属する特定の社会は心情を含め戦地に向かう行為を讃えた。特定の社会は特定のreligion宗教をadvocate標榜する。提示された使命は大抵の場合に漠然としている。特定の宗教団体が、提示された使命に対して好意的な政治的判断を示すことは有り得る。

 

時代は近代となり、学究機関が整備されて、どの文化ー社会、国においても、自らの属する文化の伝統に勿体ぶり、回帰する知識階級の姿が観察された。第二次世界大戦以来、計算機科学の発展からなのか、言葉をモジュール化し、枠組みを置き体系とする努力を否定する社会科学者が増えた。society社会という言葉は、翻訳と伴に問題が多い。ラテン語、socius、societasでは前提(条件)だった周期、二重の継続は外に置かれた、言い換えれば、targeting対象化を受けた。終末を述べるキリスト教の導入の所産である。日本語の「社会」では、末広がりな垂直性が強調されうる。

 

名詞に性があると考え方が違うのだろう。教育機関は問答形式を用いる。古代ギリシアソクラテスの技術的なdialektik問答法とは随分異なる。違いは随分である。任意性は確かに仮想されている。任意性は否定されていない。もっとも、autonomy自動性と混同されている。前提を否定した問いは空虚である。ヒッポのアウグスティヌスは、著作の中で分派を否定し、教会の統一を強調した。ヘーゲルは「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」という表現に含めた。記憶の夢と現在とを混同したドン・キホーテも死に際には記憶と夢から覚めている。『春琴抄』の佐助は火傷を負った春琴の顔を見ないように焼いた針を目に刺した。

 

 対話『恋する青年と乙女』で少女に言い寄る青年は、なるほどかれが彼女から望むものを極めて露骨に口にする。かれは彼女に対する愛を告白し、抵抗する少女に対して、「あなたがぼくの魂を肉体から吸い取ってしまった」と語る。「子供を産むことは許されていることであり、良いことである」と述べ、もし自分が王として、彼女が王妃として子供や召使たちに君臨するようになれば、どんなにすばらしいかを説明する。こうした説得の仕方は、成人と子供の間の現代に比べて小さな精神的隔たりが、現代に比べて大きな身分的隔たりと当時うまく調和していたことを明確に物語っている。結局少女はかれの求婚に応じる。彼女はかれの妻になることの同意する。しかし、彼女は自分の処女性を大切にしたいと言う。彼女の言によれば、彼女は処女性をかれのためにとっておきたいと言うのである。彼女は接吻さえもかれに対して拒絶する。かれがどうしても接吻させてほしいと願うと、笑いながら彼女は答える。「あなたの言葉によれば、わたしはあなたの肉体からすでに半ば魂を吸い取ってしまったのですから、このうえ接吻などすれば、きっとあなたの肉体から魂をすっかり吸い取ってしまって、あなたをそのために殺してしまうのではないでしょうか」と。『文明化の過程 上』 ノルベルト・エリアス 赤井慧爾、中村元保吉田正勝訳 2004年 141頁

 

関連

『空間の生産』アンリ・ルフェーブル 斎藤日出治訳 青木書店 2000年

スティグマ社会学』アーヴィング・ゴッフマン 石黒毅訳 せりか書房 2001年

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