「社会の変化に対応して」「我が国の実情にそぐわない」

 漢字「義」は一次元方向と不確かな応酬とすべきだろう。明日の身だって判じないではないか。批評家の鬱陶しいおしゃべりよりは、少年誌の簡潔さの方が好ましい。「対義語」と「反対」は濫用される。熟語とはそのようなものである。目的と存在の併用からして、動作の反対、形容詞の反対、名詞の反対がある。stative verb状態動詞の反対は、厄介である。「賛成の反対なのだ」。

 

 「……人と日本人は全く反対である」。右左さえわからなくなりそうな表現である。鏡のように「長い」の反対に「長くない」を置くのは華やかさに欠け、自己複製を忌々しい。だから、そのような表現は少ない。他者から見て、「有る」の反対が「無い」なのは正しい。この場合、特定の人間の判断を含む反対に「無い」が置ける。裁判が始まった。固定する方向が重要である。応酬はしばしば、比喩として商取引を用いることで表現される。比喩としての農作業・漁業は労苦だろう。

 

 「戦争に時効はない」。百年戦争の取得時効という考え方は可能ではないのか。分類を含め第二次産業の割合の増加は高々200年ほど前からのことであり、第三次産業については、戦後と述べた方が相応しい。このような表現は、優位な経済が、排他的な地位を獲得する前後にしか役に立たず、現代では既に役に立たない。むしろ、経済学者の表現は、経済学者の友人にしかに役に立たない、の方が順当である。ノーベル経済学賞スウェーデン国立銀行が設立したのは有名である。必要から労働が生まれる経済と、労働から必要が生まれる経済は全く異なる。ノーベル経済学賞は一年毎に、一つずつ増える。

 

 応酬において重要なのは、関係と期間、価値である。期間は必ずしも長さ(大きさ)ではなく出来事であってもよい。一般的に、商取引は対等な関係で期間は合意による。(covenant―)contract契約という表現は、対等な関係、または、期間の定めを強調するのに用いられる。ホッブズ、ロック、ルソーたちの「社会契約」である。対等な関係において価値は行為者相互の問題である。合意により価値を与え、合意により値する物を返したという関係が成り立つ。

 

 ざっくりと言えば、オーブンでパンを焼くのは、我々には商取引とは言い難い。しかし、「薪に火をつけると燃える」というのは、商取引に似る、とした文明は多い。貴人が無防備な裸体を召使いにさらすのは、親愛の情を表現している、とした文明は多い。そこにおいてはある種の対等な関係が擬勢されるのだろう。一方で、女性が性器をむき出しにするのを、威嚇の表現とした文明がある。猿は上唇を剥くものだが、不快感の表現とした文明がある。賞与・栄典においては、関係は対等ではない。賞与・栄典を与える者は、行為者という表現になじまず、制度との同化が求められる。賞与・栄典を与える者が期間を定め、価値あるものを定める。罰は、賞与・栄典の部分と表現して構わない。

 マタイによる福音書

(5:38)『目には目を。歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

(5:39)しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、他の頬をも向けてやりなさい。

(5:40)あなたを訴えて、下着をとろうとする者には、上着をも与えなさい。

(5:41)もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。

(5:42)求めるものには与え、借りようとする者を断るな。

 

 チャズルウィット氏なら、「与格と奪格の複数形は同形にせねば」だろう。ハンムラビ法典の『目には目を。歯には歯を』は、私刑や当然に過大なものとなる復讐を防ぐ。聖書の記述は、一見して価値が歪んでいると見える表現が多い。「前提の定義を与える」「premise前提を得る」「前提の設定資格を得る」という思考が重要である。

 

 コロサイ人への手紙

(3:1)このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に座しておられるのである。

(3:2)あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに、心を引かれてはならない。

(3:3)あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神の内に隠されているのである。

(3:4)わたしたちの・いのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光の内に現れるであろう。

(3:5)だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

(3:6)これらのことのために神の怒りがくだるのである。

(3:7)あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。

(3:8)しかし、今はこれら一切のことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。

(3:9)互いにうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、

(3:10)造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。

 アイザック・ニュートンが用いたかはわからない。成句「nani gigantum umeris insidentes 巨人の肩の上にのる矮人」の成り立ちは不明である。巨人の背を競うのは不毛である。人は「idea観念」という表現を用いると、前提に「距離」を置き、星の輝き・輝く星・輝いている星程度には、「主義」とつければ誰でも騎士になり、馬上試合し拳銃で決闘し、観念は疎遠だが近くに有る、と考え出す。風車小屋に突っ込むドン・キホーテである。

 

 マタイによる福音書

(13:10)それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った。「なぜ、彼らに譬でお話になるのですか」。

(13:11)そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

(13:12)おおよそ持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるであろう。

(13:13)だから彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。

 

ヨハネの黙示録

(13:8)そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

(13:9)地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。耳のある者は、聞くがよい。

(13:10)とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されなくてはならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰がある。

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