いくらなんでもこの世で最低ってことはないでしょ。下には下があって……

(もし強いて分類が必要とあるならば)何も神の意志だなどと言う仮定の上にではなく、むしろ人が常に、または時々に、それとも常に時々に為すところの行為を基礎として、分類したほうがまだしも賢明であり、確実だったであろう。目に見える業において、もしわれわれが神を理解できないとするならば、どうしてそれらの業を業たらしめる、いわば理解を絶した思惟において神を知ることができようか。客観存在としての被造物においてすら、神を理解することはができないものが、どうして創造という実存的な形相において理解することができようか。『ポオ小説全集4』「天邪鬼」E・A・ポオ 中野好夫訳 東京創元社 2004年 189頁

 

「賛成の、反対である」。漢字「義」は一次元方向と不確かな応酬とすべきだろう。「positive正」「negative負」かもしれない(利き目?)。明日の我が身さえわからない。批評家のおしゃべりより、少年誌の簡潔さの方が好ましい。幼子のように素直でなくてはならない。成長した人間は、完全に「幼子」に成ることはなく、天使には成れない。「対義語」と「反対」は濫用される。熟語の功罪である。目的と存在を分離した上で併用するからには、動作の反対、形容詞の反対、名詞の反対がある。stative verb状態動詞の反対は厄介である。

 

「……人と日本人は全く反対である」。右左の分からない表現である。ギリシア人とペルシア人程度では話は済まない。鏡のように「長い」の反対に「長くない」を置くのは華やかさに欠け自己複製を思わせる。だからそのような表現は少ない。対他的には「有る」の反対が「無い」なのは正しいだろう。この場合、特定の人間の判断を含む反対に「無い」が置ける。裁決をとらねばならない。しかし、iustitiaからは隔たっている。固定する方向が重要である。応酬はしばしば、比喩として商取引を用いることで表現される。

 

分類を含め第二次産業の割合の顕著な増加は高々200年ほど前からのことであり、第三次産業については、戦後と述べた方が相応しい。このような表現は、優位な経済が、排他的な地位を獲得する前後にしか役に立たず、現代では最早役に立たない。むしろ、経済学者の表現は、経済学者の友人にしかに役に立たない、の方が順当である。ノーベル経済学賞スウェーデン国立銀行が設立したのは有名である。必要から労働が生まれる経済と、労働から必要が生まれる経済は全く異なる。ノーベル経済学賞は一年毎に、一つずつ増える。

 

応酬において重要なのは、関係と期間、価値である。期間は必ずしも長さ(大きさ)ではなく出来事を置きうる。一般的に、商取引は対等な関係で期間は合意による。(covenant―)contract契約という表現は、対等な関係と期間の定めに用いられる。covenantは対等である。契約の層においては関係は対等だから、どれだけ呼びかけても人は逆らいうる。ホッブズ、ロック、ルソーたちの「社会契約」である。人と人との関係において価値は相互の問題である。合意により価値を与え、合意により値する物を返したという関係が成り立つ。

 

 オーブンでパンを焼くのは、我々には商取引とは言い難い。しかし、「薪に火をつけると燃える」というのは、商取引に似る、とした文明は多い。貴人が無防備な裸体を召使いにさらすのは、親愛の情を表現している、とした文明は多い。そこにおいてはある種の対等な関係が擬勢されるのだろう。一方で、女性が性器をむき出しにするのを、威嚇の表現とした文明がある。猿は上唇を剥くものだが、不快感の表現とした文明がある。賞与・栄典においては、関係は対等ではない。賞与、栄典を与える者は、行為者という表現になじまず、制度との同化が求められる。賞与、栄典を与える者が期間を定め、価値あるものを定める。罰は、賞与・栄典の部分と表現して構わない。

 

 マタイによる福音書

(5:38)『目には目を。歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

(5:39)しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、他の頬をも向けてやりなさい。

(5:40)あなたを訴えて、下着をとろうとする者には、上着をも与えなさい。

(5:41)もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。

(5:42)求めるものには与え、借りようとする者を断るな。

 

チャズルウィット氏なら、「dativus与格とgenetivus奪格の複数形は同形にしなくてはならない」だろう。ハンムラビ法典の「目には目を。歯には歯を」は私刑を防ぐ。聖書の記述は、一見して価値が歪んでいると見える表現は多い。

 

 コロサイ人への手紙

(3:1)このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に座しておられるのである。

(3:2)あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに、心を引かれてはならない。

(3:3)あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神の内に隠されているのである。

(3:4)わたしたちの・いのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光の内に現れるであろう。

(3:5)だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

(3:6)これらのことのために神の怒りがくだるのである。

(3:7)あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。

(3:8)しかし、今はこれら一切のことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。

(3:9)互いにうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、

(3:10)造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。

 

アイザック・ニュートンが用いたかは不明である。成句「nani gigantum umeris insidentes 巨人の肩の上にのる矮人」の起源は不明である。巨人の背を競うのは不毛である。人は「idea観念」という表現を用いると、星の輝き(/輝いている星)程度には、「主義」と付ければ誰でも騎士貴族、または、カエサルになり、馬上試合、拳銃で決闘し、観念は疎遠だが近くに在る、と考え出す。風車小屋に突き込むドン・キホーテである。

 

 マタイによる福音書

(13:10)それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った。「なぜ、彼らに譬でお話になるのですか」。

(13:11)そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

(13:12)おおよそ持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるであろう。

(13:13)だから彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。

 

ヨハネの黙示録

(13:8)そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

(13:9)地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。耳のある者は、聞くがよい。

(13:10)とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されなくてはならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰がある。

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