我が国の実情にそぐわない

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 目的(そのように見えること)と存在(そのようであること)は異なる。自然の部分が、自然の部分を「refraction/infrection屈折」なく、’見る’ことは「可能」であり、多様体は、―「無理」ではないが―「不可能」である。言い換えれば、性質としての「理」が客体化されて構成される。(「理」を性質として有する存在は、無意識に客体化を前提として用いている。ここでの「理」は道教と後期儒教との用法が混在している。おそらく翻訳の基礎は後者である。)

 

 

 (アイザック・ニュートンが用いたかはともかく)成句、「nani gigantum umeris insidentes 巨人の肩の上にのる矮人」にあるように、近代の科学者は、巨人の背を競っているような印象を受ける。「idea観念」という表現を用いると、(前提に「距離」を置き)星の輝き・輝く星・輝いている星・・・・・・・程度には、―「主義」とつければ誰でも騎士になり馬上試合し、拳銃で決闘し―観念は疎遠だが近くに有る、と思い込むらしい。

 

(ⅰ)点は見えないが便宜を図り点を打つ。

(ⅱ)点は見える。

(ⅲ)見えるものが点である。

 

 

マタイによる福音書

(13:10)それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った。「なぜ、彼らに譬でお話になるのですか」。

(13:11)そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

(13:12)おおよそ持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるであろう。

(13:13)だから彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。

 

 肉のことは、「法」である以上、日や年数で数えるしかない。(注釈 時間・永世・永遠の区別はnote2を参照)終末と神の国はまだ来ていない。ローマについては、エルンスト・カントロヴィチの著作にあたった方がよい。

 

 

 

 

 

ヨハネの黙示録

(13:8)そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

(13:9)地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。耳のある者は、聞くがよい。

(13:10)とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されなくてはならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰がある。

 

 

 

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