note7-1 象徴

Antiocheneschoolアンティオキア学派
economic Trinity救済史的三位一体
 

Participatiton参与
共同体を正統性から扱う。
或る共同体は、特定性を有する現存を有する。
或る共同体が普遍的ならば、或る共同体は或る現存の道徳的模範としてのイエス・キリストを強調しなくてはならない。

 


救済史的三位一体は、tradition伝統、translation翻訳、連続記法、から考えるとよい。
救済史的三位一体と内在的三位一体との混同には、
Letterpress printing活版印刷、Nation-state国民国家、Individualism個人主義
vanishing point消失点、point at infinity無限遠点 、abductionアブダクション
hypothesis仮説から考えるとよい。

 

 

Gospel of Matthewマタイによる福音書
(22:1)イエスはまた、譬で彼らに語って言われた。
(22:2)天国は一人の王が、その王子のために婚宴を催すようなものである。
(22:3)王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。
(22:4)そこでまた、他のしもべたちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』
(22:5)しかし彼らは知らぬを顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、
(22:6)また、ほかの人々はこのしもべたちを捕まえて、侮辱を加えた上、殺してしまった。
(22:7)そこで王は立腹し、軍隊をおくってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
(22:8)それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった
(22:9)だから、町の大通りに出て行って、出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさい』。
(22:10)そこで、僕たちは道へ出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
(22:11)王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていない一人の人を見て、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、
(22:12)彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここに入ってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
(22:13)そこで王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
(22:14)招かれるものは多いが、選ばれるものは少ない」。

 

 

けだし彼らは自分たちの手元に実証的資料が欠ける場合、そして神学的ナンセンスも政治論的ナンセンスも文学的ナンセンスも売り物にならない場合には、皆目どんな歴史も生じさせず、かえって「前史時代」なるものを生じさせしかもどうしてこの「前史」のナンセンスから本来の歴史へ入ってゆくのか明らかにすることがないのだからである。――もっともその反面、彼らの歴史的思弁はこの「前史」に首ったけになるのだが。というのは、彼らの思弁はここでは「なまの事実」から侵害をうけるおそれはないと信じているからであり、同時にまた、ここではその思弁的衝動を手放しにはたらかせて仮説をいくらでも作ったり覆したりすることができるからである。

マルクスエンゲルス全集3 ドイツ・イデオロギー』 真下信一訳 大月書店 1963年 24頁

 

 

 

共産主義はわれわれにとっては、つくりだされるべきなんらかの状態、現実が則るべき(であるような)なんらかの理想ではない。われわれが共産主義とよぶところのものは現在の状態を廃止する現実的運動のことである。
共産主義は一つのきわめて実践的な運動であり、実践的目的を実践的手段で追及するものであって、せいぜいドイツにおいて、ドイツ哲学者を向こうにまわして、ちょっとのあいだ「本質」にかかわりあうことができるだけだということ、こうしたことはもちろん、わが聖者にはすこしもかかわりがないのである。

マルクスエンゲルス全集3 ドイツ・イデオロギー』 真下信一訳 大月書店 1963年 31、211頁

 

 

 

 

彼らは共産主義的な体系や批判や論争書を現実の運動から―前者は後者のたんなる表現であるのに―取りはずし、ついで、それらをドイツ哲学との勝手気ままな連関のなかへ持ちこむ。彼らは歴史的に制約された一定の生活領域の意識をこの生活領域から切り離し、それを真の、絶対的な、すなわちドイツ的=哲学的な意識で測る。彼らはまったく首尾一貫してこれらの特定の個人たちの状態を「人間なるもの」の状態に変えるのであり、これらの特定の個人たちが自分たちの自身の状態についてもっている思想を、これは「人間なるもの」についての思想だと解するのである。

マルクスエンゲルス全集3 ドイツ・イデオロギー』 真下信一訳 大月書店 1963年 494頁

 

 

 

(82)歴史を科学的に基礎づけようと望むブルジョワジーの時代は、融通無碍なこの学自体が歴史的にはむしろ経済によって築かれたはずであることを無視する。歴史が科学的知識に根本的に依存するのは、単に経済史に限ってのことでしかない。
(87)・・・・・・しかし、マルクスは、ボナパルティスムのなかに、資本と国家との融合と「労働に対する資本の国民力、社会的隷属のために組織された警察力」の政体の上に成り立つこの現代の国家的官僚主義を既に素描していた。そこでは、ブルジョワジーは自分たちをモノの経済史に還元しないような一切の歴史的生を放棄し、「他の階級と同じ政治的虚無を宣告されること」を自ら進んで願い出る。
(145)資本主義の発展にともなって、不可逆的な時間は世界的に統一される。全世界がこの時間の発展の下に集められることで、普遍的な歴史が一つの現実となるのである。だが同じ時間に世界中どこでも同じであるこの歴史は、まだ歴史の内部での歴史の拒否でしかない。経済生産の時間が、均等な抽象的断片に細分されつつ、一つの同じ太陽のようにしてこの惑星全体の上に出現するのである。統一された不可逆的時間とは、世界市場の時間であり、その必然的帰結として、世界的スペクタクルの時間となる。
(146)生産の不可逆的時間はまず何よりも、商品の尺度である。それゆえ、世界のあらゆる場所で社会の一般的時間として公式に認められている時間は、それを構成する専門化された利害を意味するだけの、特殊な時間でしかない。

スペクタクルの社会』 ギー・ドゥボール 木下誠訳 2003年

 

 

 

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