note11 否定

 

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method方法(探求への道)

(ⅰ)antikeimenon互いに対立しあうもの 
(ⅱ)hypokeimenon(subject)下に置かれたものとantikeimenon向こう側に置かれたもの 
(ⅲ)antikeimenons思考や感覚の働きに対置されるもの

 

アリストテレスについて、自然科学、ギリシャ語、技術的な問答法、労働、読書行為から考えるとよい。ヘーゲルの生成されていく歴史への弁証法は、上記のnote1の方法の(ⅲ)(ⅶ)の併用である。

 

 

 

そこで、(ⅱ)かりに点という意味での部分によって知性認識するのであり、点は無限にあるとすれば、明らかにそれを最後まで行き尽くすということはけっしてないであろう。他方で、(ⅰ)大きさを持つという意味での部分であれば、同じものを数多くあるいは無限回も知性認識することになるだろう。しかし一度だけでも知性認識することができることは明白である。また、どの部分であってもそれが接触するだけで知性認識するに十分であるとするならば、なぜ知性は円環運動する必要があるのだろうか、いやさらに、そもそも一般的に大きさを持つ必要があるのだろうか。
 だが、もしも(2)知性認識するのには円環の全体で接触するのでなければならないとするならば、部分による接触とはどのような意味をもつというのか。
 さらに、(3)部分をもたないものによって部分に分かたれたものを知性認識したり、部分に分かたれたものを知性認識したり、部分に分かたれたものによって部分をもたないものを知性認識することは、いったいどのようにして可能だろうか。
 しかし、知性はこのような円環でなくてはならないはずである。なぜなら、知性の動きは認識活動であり、円環の動きは回転だからである。そこで、知性認識活動が回転であるとすれば、知性認識活動であるそのような回転が属す円環は知性であることになるだろう。
・・・・・・
 またさらに、知性認識は動よりも一種の静止や停止に似ている。同じことが推論についても当てはまる。

アリストテレス全集 7』 「魂について」 中畑正志・坂下浩司・木原志乃訳 岩波書店 2014年 40頁

 

 

 

 しかしまた、同一のものは、それが分割されないものであり、また分割されない時間のうちにある限りにおいては、反対の動(運動変化)を同時に動くことは不可能である。実際、もし対象が甘ければ、特定の仕方で感覚や知性認識を動かすが、苦いものはそれとは反対の仕方でそれらを動かし、白いものはまたそれとは別の仕方で動かすのである。

アリストテレス全集 7』 「魂について」 中畑正志・坂下浩司・木原志乃訳 岩波書店 2014年 134頁

 

 


 だが誰であれ、それら四つのそれぞれがそれだけ単独で言われているのを、われわれが命題もしくは問題だと言っていると解してはならない。そうではなく、それらから、問題や命題が生じるというのである。問題と命題の違いはその表現の仕方にある。つまり「はたして「二足陸棲の動物」は人間の定義式であるか」とか、「はたして動物は人間の類であるか」というような仕方で言われれば、それは命題となるし、「二足陸棲の動物」は人間の定義式であるか否か」と言われれば、それは問題となるのである。これは他のものの場合にも同様である。その結果、問題と命題が数の点で等しいのは当然である。どんな命題からでも、その表現の仕方を変えれば問題を作ることができるのだから。

アリストテレス全集 3』 「トポス論」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 28頁

 


ところで、無条件には、より先なるもののほうがより後のものよりもよりよく知られる。たとえば、点のほうが線よりも、線のほうが面よりも、面のほうが立体よりもよく知られる。ちょうど「一」のほうが数よりもよく知られるように。なぜなら、「一」は数よりも先なるものであり、あらゆる数の始原であるのだから。

アリストテレス全集 3』 「トポス論」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 232頁

 

 

 

また、相手が関係的なものについて、それらの種差を他のものと関係させて与えていないのかどうかも見る必要がある。なぜなら、関係的なものの種差もまた、関係的なものなのだから。ちょうど、知識の場合がそうである。というのは、知識は観想的と、実践的と、創作的と語られるが、これらのそれぞれは何かとの関係を示しているからである。すなわち、それらは何かを観想することのできるもの、何かを作ることのできるもの、何かを実践することのできるものなのだから。

アリストテレス全集 3』 「トポス論」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 246頁

 

 

 

知識はおそらく無限にあり、それゆえ論証もまた無限にあることは明らかであるから。他方で、論駁には偽のものだけでなく、真の論駁もある。それは、論証が成立する数だけ、真理に矛盾した提題を立てる人を論駁することもできるからである。例えば、もし或る人が「正方形の対角線は、辺と通約可能である」と提題を立てたら、問い手は「対角線は、通約不可能である」と論証することで論駁できる。

アリストテレス全集 3』 「ソフィスト的論駁について」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 399頁

 

 

 

ここで「見かけの(パイノメノン)」とは、どんな人にもそう見えるのではなく、特定の人々に対するものである。それは、もし偶々出くわす人々に対して論駁に見えるのが、いくつの論点に基づくのか考察してみても、際限のない仕事だからである。

アリストテレス全集 3』 「ソフィスト的論駁について」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 401頁

 

 

 

さらに、真理が二様に考えられている場合、人はとりわけこういった命題について、名辞の意味を転用しても気づかれないだろう。一方で、真理がどちらの仕方であるか不明瞭な場合、ソフィスト的詭弁に引っかかているとも思われず、他方、二様に考えられている場合、虚偽を語っているとは思われないからである。意味を転用する、つまり、メタファーを作ることは言論を論駁不可能にするのである。
 さらに、問われることを予め感じ取っている限りのものは、予め反論しておくか、予め断っておくべきである。そうしておけば、問い尋ねる者が自分を論駁することを、とりわけ阻止できるだろうから。

 

アリストテレス全集 3』 「ソフィスト的論駁について」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 429頁

 

 

 

そうしてことの序でに学について真面目に努力しているかのような外観を装うために、この種の諸関係を前提とすることから結論として導き出す遁辞についても、さらにはすべてに解答を与えてやろうとしてとやかく心を苦しめることも無用である。そんな苦労をせずに、これらすべてをでたらめで気まぐれな「表象」として即座に投げ捨ててしまってよいであろうし、またこれらの「表象」に結びついている「絶対者」とか「認識」とか「客観的なものとか」とか「主観的なもの」とか、その他無数の語の意味は一般によく知られているとして、この意味が前提して用いられているがこんな用法は詐欺とさえ見なされてよいであろう。なぜなら、一方ではこれらの語の意味は一般によく知られていると言いふらし、他方では自分でもそれらの概念をもっていると言いふらすのは、この概念を与えるという主要課題は、これを省略するつもりとしか見えないからである。こういう省略よりも、むしろ学自身をさえ拒否するつもりであるところの、この種の表象やお題目については、およそ一顧の注意をも払う労力を省略する方が正当であるであろう。けだしこれらの「表象」やお題目は、学が登場するあかつきには、即座に消え失せるところのうつろな現象に過ぎないからである。

 

精神の現象学』 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 金子武蔵訳 岩波書店  ――