青いというよりうすぎたない。けさも顔をあらわなかったな。

 

しかしこれもそもそものはじめから、「純粋な」意識としてあったのではない。「精神」には物質が「憑きもの」だという呪いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気、層、音、約言すれば言語の形式において現われる。​『マルクスエンゲルス全集3 ドイツ・イデオロギー』 真下信一訳 大月書店 1963年

 

 だが、老ヘーゲルは、もし彼があの世で次のようなことを聞いたら、いったいなんと言うだろうか? というのは、ドイツ語や北欧語の das Allgemeine(一般)が意味しているものは共同地にほかならず、 das Sundre, Besondre(特殊)が意味しているものは共同地から分離した個別所有地にほかならないということだ。そうならば、いまいましくても、論理学の諸範疇は「われわれの交易」から生じている、ということになるわけだ。(1868年3月25日 マルクスからエンゲルスへ)『マルクスエンゲルス全集 32』 大月書店 45頁

 
ふしぎとは「不思議」であり、その様な何かである。タケコプターを付けて、ドラえもんのび太は回らない。付属物に振り回される観念などあるだろうか。ドラえもんタケコプターより偉大である。ドラえもん藤子・f・不二雄が書いており、のび太は、藤子・f・不二雄が書いている。二人の任意性は藤子・f・不二雄による非仮想な設定である。二人は本来的に、更に本質的には同一と理解され得るのだから、会話は必要ないのか。

  

トマス・アクィナスは、「神の存在論的証明」を行った。教会内で三位一体の神の存在が疑われていたのではない。ルネ・デカルトは、「ルネ・デカルト」の存在と「神」の存在は疑えないとした。ルネ・デカルト の隣人が、「ルネ・デカルト 」の存在を疑ったか、不明である。アイザック・ニュートンは、「重力」についての説明の必要性を感じない。アイザック・ニュートンは、重さを有した。アルベルト・アインシュタインは「空間」の存在を疑わない。ルネ・デカルトアイザック・ニュートンが神の存在を疑っていたと考えるのは度し難い愚かである。他者が支配的に用いた/用いている概念を転用した/転用している際には問題が生じる。同義反復は推論となる。declaration表明/宣告(ーconfession告白)の効果である。

 

 教会はキリストの花嫁である。わたしは金を持たない盗人が店で盗む事をrational合理的、とする。怪盗が富者を狙うのは合理的である。理解できるし、わたしは気持ちが晴れやかになる。昭和の社会では、万引きくらいで騒がなかった。大量に食品を貯め込み廃棄するから相手は悪(党)である。否である。蓄積のみで悪を見た。義賊が金をばらまかずとも、吹き溜まりの破壊で正しい循環を喜ぶ。天下を回る金と愛すべき放蕩息子である。食品の期限には途方もない愚かが始まると騒がれた。焼き菓子に秘密の隠し味は認められない。警察とは、軍隊、ヤクザの婉曲表現である。我々は生活の普遍性を錯覚して生きている。一世代過ぎた集団は、名を冠していても、元の集団ではない。否である。名(板)だけが浮遊する。集団の維持には、(外部の)環境が一定である上に、更に努力しなければならない。

 

『金梅瓶』の婆さんには、姦通に婆さんなりの「?理」が見出せる。つまり、婆さんは、西門慶に対して、(ⅰ)わたしに貴様は定まった、わたしは貴様を知っている(ⅱ)わたしは貴様を掴んだ、わたしは貴様を持っている(ⅲ)わたしは貴様を適用する、と述べている。我々は狭量な近代人ではない。人間は酩酊し前後不覚にある、殴打され昏睡状態にある、などの例外を問わなければ、ratio比を用いている。ratioは形容詞化すると「客観的な/に」limit極限になる。

 

scientia est potentia. 世界には人がいる。世界には二種類の人がいる。世界には二種類の人間がいる。(「君の――を言ってみたまえ、君がどんな人間であるか言い当てて見せよう」?)心無い人間がいないとは言い難い。「出来力」「可能力」と造語されかねない。言葉の乱れである。「世界には二種類の人間がいる」。power力と聞いて冪、(平)方、根を考える人間と、考えない人間である。集団の対立、post-human、ゾンビ、フランケンシュタイン、サイボーグ、アウストラロピテクス、いずれにせよ、「世界には二種類の人類がいる」と言えば、世界はSFである。知識が信仰を前提にしなければ不確実で、言い換えれば、probability蓋然性の問題となり、悪用されることには疑いの余地がない。意思、思惑をともあれ、意志により選択(ー決定)しなければならない。政治家は二枚舌を使う。「リアリスト」の政治学者が現われる。

 

 そうするとあの教養ある近代人どもは(フーゴ―の)自然のままの腹蔵のない「動物的」の代わりに「有機的」な法という……『マルクスエンゲルス著作集 1』「プロイセンの最新の検閲」 

 
 ヘーゲルは科学者がその研究する学問に沈潜することを求めている。おそらく、沈潜は持続できない。ショーペンハウエルのように、余暇をとり音楽を聴くのは悪いことではない、という判断を示している。バートランド・ラッセルは、十九世紀末のイギリスに貴族階級として生れ、出身に相応しい見識を内に留めつつ鷹揚さを示した。24歳の彼が記したジャーナリズム的な著作である『ドイツ社会主義』では、マルクス社会主義を混ぜて述べ、マルクスについては『資本論』のしか述べない、という体裁をとる。inpertial中立なラッセルが賛同する者以外の記した著作に対して、寛容な態度が既に現れている。

 

  このことは伝記文学の観点からも比較文化的な観点からも、さほど極端に驚くべきことではない。なぜなら「他者化」にとって本質的に重要なのは、次のことではないだろうか。集団としての「他者」は、無条件かつ価値規範的に、差異のない均質的な集団としてあつかわれるべきだと見なされるのに対し、個々人としての「他者」たちが、そのステレオタイプ化された他者イメージと食いちがうような人格的関係を自己ととり結ぶ場合、彼らはその定義上「一般原則を証明する例外」としてあつかわれるということである。いずれにせよ、「私の親友の中にはペルシア人ユダヤ人(等々)」もいる式の症候群は、クセノフォンの人生においても彼の作品の中にも、幅をきかせていたのであった。『古代ギリシア人 自己と他者の肖像』 ポール・カートリッジ 橋爪弦訳 2001年 88頁

 

第一次世界大戦第二次世界大戦期を過ごした、スイス人神学者カール・バルトは、組織神学を軽視し、キリストを中心に構成した。彼は著作の中で正当に、論理を欠いているように感じられても、虚無的な何かの拒否はキリスト教的であると置いた。一人の思考は突き詰めれば、選択の選択の拒否で留まる。ヘルマン・ヘッセは『シッダールタ』を記した。近代には東洋が西洋で流行した。

 

 (43)ある著者たちは、自分の著作について話す時、「私の本、私の注解、私の物語、等々」と言う。そう言う彼らは、一戸を構え、いつも「拙宅では」を口にする町人臭がぷんぷんしている。彼らはむしろ、「われわれの本、われわれの注解、われわれの物語」というほうがよかろう。というのは、普通の場合、そこには彼ら自身のものよりも他人のもののほうが、よけいにはいっているからである。『世界の名著パスカル パンセ』 前田陽一、由木康訳 中央公論社

 

 創世記 
(4:1)人はその妻、エバを知った。彼女は身ごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によってひとりの人を得た」。
(4:2)彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕すものとなった。
(4:3)日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
(4:4)アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
(4:5)しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
(4:6)そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
(4:7)正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
……
(4:13)カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
(4:14)あなたはきょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見つける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
(4:15)主はカインに言われた。「いや、そうではない。だれでもカインを殺すものは七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付けるものが、誰も彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

 

伝道の書
(1:1)ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
(1:2)伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
(1:3)日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
(1:4)世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない。
(1:5)日は出で、日は没し、その出たところに急ぎ行く。
(1:6)風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐるところに帰る。
(1:7)川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
(1:8)すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
(1:9)先にあったことは、また後にもある、先になされたことは、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

 
情感とは知る言葉以上を示すための願望であり、選択のための機能である。アメリカ、スイスで裁判官の職を務めることは、日本で裁判官の職を務めることと異なる。日本国憲法第十九条は、「思想および良心の自由はこれを侵してはならない」としている。国家の施行する法とから一般に「freedom of thouhght and conscience思想および良心の自由」は言論、出版と関わり、法の下に運用される。また、良心の自由は宗教と関わりで運用される。mashとmushは異なる。pumpkinはsquashである。squashはpumpkinとは限らない。conscience良心とconsciousness意識の区別が生れた。liberal arbitrum意志(ー意思)の自由はfreedom of thoughtと、free will自由意志に(転換/)transformation変容した。自戒と社会的な強制、罪な思考という理念が薄れた結果である。習性から悪く、努めて利他的に行為しなければならない、という理解があるところでは、雑多なおしゃべりは生じない。

 

レビ記

(38:22) あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。


問答形式は答えを誘導する。古代ギリシアで問答法は技術的な性格を持った。ピタゴラスの述べる様に2+3は結婚であるとは言い難い。ピタゴラスは「有限と無限」「奇数と偶数」「男と女」といった(対立ー)「対照」を好んだ。敬虔なユダヤ教徒は、安息日に傘を差さない。男性の同性愛に厳しいが、女性の同性愛には寛容とされている。

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