人のそれぞれ「どこかで聞いた表現だ。君はどこから盗み、いつ忘れたのだろう」

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これもまた反省というもののきわどい微妙な点なのだが、熟考の結果くだした決断が悪から救いだしてくれるのか、それとも、熟慮に疲れはててしまって、その衰弱の挙句に悪を犯さずにすむことになるのかみさかいが付かないということがある。しかし知識が増せば憂いが増すように(伝道の書1・18)ように、反省も憂いを増すのである。そしてわけても確かなのは、個人個人にとっても、一世代全体にとっても、反省の誘惑からのがれ出ることほど困難な課題も努力もないということだ。
 その理由は、ほかでもない、反省の誘惑が実に弁証法的だからである。たった一つの賢い思いつきでも事柄をいきなり逆転させて一新することができるからである。反省というやつは、いつなんどきでも説明を変えて、何とかこっそり人をこっそり逃がしてやることができるからである。『――』(カール・マルクス

 

 

 

 

自然は空間を本質的規定とするがゆえに、直接的にしか現存しない。

『哲学的断片』(カール・マルクス

 

 

 

しかしこれもそもそものはじめから、「純粋な」意識としてあったのではない。「精神」には物質が「憑きもの」だという呪いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気、層、音、約言すれば言語の形式において現われる。​

マルクスエンゲルス全集3 ドイツ・イデオロギー』 真下信一訳 大月書店 1963年

 


 だが、老ヘーゲルは、もし彼があの世で次のようなことを聞いたら、いったいなんと言うだろうか? というのは、ドイツ語や北欧語の das Allgemeine(一般)が意味しているものは共同地にほかならず、 das Sundre, Besondre(特殊)が意味しているものは共同地から分離した個別所有地にほかならないということだ。そうならば、いまいましくても、論理学の諸範疇は「われわれの交易」から生じている、ということになるわけだ。
(1868年3月25日 マルクスからエンゲルスへ)
マルクスエンゲルス全集 32』 大月書店 45頁

 

 


 ふしぎは「不思議」であって、そのようなものである。タケコプターをつけても、ドラえもんのび太は回らない。どこでもドアの片方をもう一方に投げ入れたら、おそらく抵抗なく抜き取れるのだろうが、想像しても仕方ない。ドラえもん藤子・f・不二雄が書いており、のび太は、藤子・f・不二雄が書いている。二人は本質的に同一なのだから、会話は必要ないはずである。

 

 

 トマス・アクィナスは、「神の存在論的証明」を行ったが、教会内で三位一体の神の存在が疑われていたわけではない。ルネ・デカルトは、「ルネ・デカルト」の存在と「神」の存在は疑えないとした。ルネ・デカルト の隣人が、「ルネ・デカルト 」の存在を疑ったかは不明である。アイザック・ニュートンは、「重力」についての説明の必要性を感じなかった。アイザック・ニュートンは、重さを有していた。アインシュタインは「空間」の存在を疑わなかっただろう。

 


 おそらくキリスト教徒なら、人が神なしに存在し何事か推論する、というのを語義矛盾とするだろう。おそらく科学者なら(抽象)、演繹、還元(証明)、帰納をせずに推論する、というのを語義矛盾とするだろう。ここには、他者が支配的に用いていた・用いている概念を転用する・転用した際の問題がある。おそらくキリスト教徒なら、なぜ科学が神について何事か述べるまでに至るのか、と訝しむはずである。「AはA(同義反復)である」は「推論」とされなければならない。

 


教会は、キリストの花嫁である。以下の表現には争いがある。
キリスト教は宗教である
イエス・キリストは人間である
・数学は(一般的)科学である
キリスト教信仰はrational合理的である
・魂は精神である
・魂は複数である
・科学は合理的である(注釈 おそらく、「科学者の行なう科学は合理的である」、ではない)

 

 

 (行為)と目的という表現で ’行為者はある者により(行為者が合目的に行為するか否か、という判断に関らず)造られ、ある者の目的に従う’ 場合に行為者は目的を有するだろう。ある者の視点(位置、方向)を欠き、「合理的である」というのは語義矛盾である。

・人間が神により造られ、神の目的に「合理的に」行為する。
・労働者が資本家により造られ、資本家の目的に「合理的に」行為する。
・資本家が資本により造られ、資本の目的に「合理的に」行為する。
・科学者が科学により造られ、科学の目的に合理的に行為する。

 


 世界には、人がいる。世界には二種類の人がいる。世界には、二種類の人間がいる。
 not を用いることは、面白くなくても意義がある。世界には二種類の人間がいる、力と聞いて冪と平方を考える人間と、考えない人間である。
 

 

 聖書が「知識」を求めるべきとしていることには疑いの余地がない。「知識」が信仰を前提にしなければ、不確実で(言い換えれば、蓋然性の問題となり)悪用されるものであることには、疑いの余地がない。ここで考えるべきなのは、近代からの政治家の二枚舌、「realist現実主義者」、(戦争や兵器の使用など)事の後で反省したと表明する学者である。

 

 

 そうするとあの教養ある近代人どもは(フーゴ―の)自然のままの腹蔵のない「動物的」の代わりに「有機的」な法という・・・・・・

マルクスエンゲルス著作集 1』「プロイセンの最新の検閲」

 

 

 


 若いマルクスの批判が正当かはともかく、ヘーゲルは科学者がその研究する学問に「沈潜する」ことを求めている。おそらく「没頭する」だとか、「一心不乱に」のような表現は不適当だと、ヘーゲルは判断したのだろう。つまり、「沈潜する」という表現は、ニーチェが述べるところのショーペンハウエルのように、余暇をとって、音楽を聴くのは悪いことではない、という判断を含んでいる。

 


 バートランド・ラッセルは十九世紀末のイギリスに貴族階級として生れ、彼の生れに相応しい見識を内に留めつつ、鷹揚さを示した。時代としては、生活する者の意識としては最盛期だが、後代になって統計を取ると、追い上げる他国の発展から、 成長の停滞がグラフに現れる時期である。

 


 24歳の若い彼が記した「ジャーナリズム的な著作」である『ドイツ社会主義』では、マルクス社会主義を混ぜて述べ、マルクスについては『資本論』のあら探ししかしない、という方法をとっている。後にも引き継がれていく、彼の他人の(言い換えれば、中立なラッセルが賛成する者以外が記した)著作に対して寛容な態度がすでに現れている。

 

 

 このことは伝記文学の観点からも比較文化的な観点からも、さほど極端に驚くべきことではない。なぜなら「他者化」にとって本質的に重要なのは、次のことではないだろうか。集団としての「他者」は、無条件かつ価値規範的に、差異のない均質的な集団としてあつかわれるべきだと見なされるのに対し、個々人としての「他者」たちが、そのステレオタイプ化された他者イメージと食いちがうような人格的関係を自己ととり結ぶ場合、彼らはその定義上「一般原則を証明する例外」としてあつかわれるということである。いずれにせよ、「私の親友の中にはペルシア人ユダヤ人(等々)」もいる式の症候群は、クセノフォンの人生においても彼の作品の中にも、幅をきかせていたのであった。
古代ギリシア人 自己と他者の肖像』 ポール・カートリッジ 橋爪弦訳 2001年 88頁

 

 

 

 

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