ヨハネによる福音書(15:15)わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしの父から聞いたことを皆、知らせたからである。

 そうしてことの序でに学について真面目に努力しているかのような外観を装うために、この種の諸関係を前提とすることから結論として導き出す遁辞についても、さらにはすべてに解答を与えてやろうとしてとやかく心を苦しめることも無用である。そんな苦労をせずに、これらすべてをでたらめで気まぐれな「表象」として即座に投げ捨ててしまってよいであろうし、またこれらの「表象」に結びついている「絶対者」とか「認識」とか「客観的なものとか」とか「主観的なもの」とか、その他無数の語の意味は一般によく知られているとして、この意味が前提して用いられているがこんな用法は詐欺とさえ見なされてよいであろう。なぜなら、一方ではこれらの語の意味は一般によく知られていると言いふらし、他方では自分でもそれらの概念をもっていると言いふらすのは、この概念を与えるという主要課題は、これを省略するつもりとしか見えないからである。こういう省略よりも、むしろ学自身をさえ拒否するつもりであるところの、この種の表象やお題目については、およそ一顧の注意をも払う労力を省略する方が正当であるであろう。けだしこれらの「表象」やお題目は、学が登場するあかつきには、即座に消え失せるところのうつろな現象に過ぎないからである。『精神の現象学』 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 金子武蔵訳 岩波書店 1971年

 

しかしこれもそもそものはじめから、「純粋な」意識としてあったのではない。「精神」には物質が「憑きもの」だという呪いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気、層、音、約言すれば言語の形式において現われる。​『マルクスエンゲルス全集3 ドイツ・イデオロギー』 真下信一訳 大月書店 1963年

 

 だが、老ヘーゲルは、もし彼があの世で次のようなことを聞いたら、いったいなんと言うだろうか? というのは、ドイツ語や北欧語の das Allgemeine(一般)が意味しているものは共同地にほかならず、 das Sundre, Besondre(特殊)が意味しているものは共同地から分離した個別所有地にほかならないということだ。そうならば、いまいましくても、論理学の諸範疇は「われわれの交易」から生じている、ということになるわけだ。(1868年3月25日 マルクスからエンゲルスへ)『マルクスエンゲルス全集 32』 大月書店 45頁

 

……しかしながらここで指摘しておく必要があるのは、ヘロドトス自身が純粋にギリシア系の生まれなのではなく、混血の出自であったという事実である。彼が生まれたのはハリカルナッソス、今でいえばトルコ西岸に位置するボドルムにあたる都市で、おそらく前四八〇年代のことであった。ハリカルナッソスは、ペルシア帝国の総督(サトラップ)が治める属州リュディア内の、地理的にはカリアと呼ばれた地方にあった。ゆえに彼は、ペルシア帝国の一市民として生まれたことになる。彼はこのペルシア帝国を、のちに自分のライフワークのテーマに選んだわけである。だがハリカルナッソスというポリスは、政治的に独立していなかったわけではなく、そこに住む住民も、生粋のギリシア人ばかりではなかった。ヘロドトスの父もおじ(もしくはいとこ)も、その名前はカリア人名か、もしくはカリア系に由来するものであり、これはギリシア人と「原住民」との間の通婚か、あるいは他のなんらかの密接なつながりの結果であると考えられる。あるいはむしろ、カリア人がギリシア語を解さなかったという事実をくみとれば、「原住民」ではなくて、「バルバロイ」、すなわち異国語を話す人々、といいかえた方が語の本来の意味にかなっているだろう。ホメロスが「バルバロフォイ」、すなわち「バルバルとしか聞こえない異国のことばを話す人々」という添え名を用いて―これはホメロスがこのことばを使っている唯一の例なのだが―形容している民族とは、まさにこのカリア人なのであった。『古代ギリシア人 自己と他者の肖像』 ポール・カートリッジ 橋場弦訳 白水社 2001年

 

ヨハネによる福音書
(15:12)わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(15:13)人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
(15:14)あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
(15:15)わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしの父から聞いたことを皆、知らせたからである。

  

人間は、'ratio'を用いる。例外は、酩酊して前後不覚である、殴打され昏睡状態にある、などである。世界には人がいる。世界には二種類の人がいる。世界には二種類の人間がいる。「世界には二種類の人間がいる」。「世界には二種類の人類がいる」は、SFである。「(右の頬を打たれ、)痛い」は、現実感がある。「右の頬を打たれたため、相手の右の頬(然もなければ、右手で相手の左の頬)を打つ」は、習慣である。意志で矯正するしかない。

 

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https://www.metmuseum.org/

Artist:Toriyama Sekien (Japanese, 1712–1788)
Period:Edo period (1615–1868)
Date:1781
Culture:Japan
Medium:Set of three woodblock printed books bound as one volume; ink on paper
Dimensions:8 7/8 × 6 5/16 in. (22.5 × 16 cm)
Classification:Illustrated Books
Credit Line:Purchase, Mary and James G. Wallach Family Foundation Gift, in honor of John T. Carpenter, 2013
Accession Number:2013.803