それぞれの人「どこかで為された判断だ、君はだれを倣い、いつ忘れたのだろう」

 

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 第一次世界大戦第二次世界大戦期を過ごした、スイス人神学者カール・バルトは、彼の神学を―組織神学を拒否したり、他の諸々を軽視したりしながら―キリストを中心に構成した。彼は著作の中で正当にも、論理を欠いているように感じられても、虚無的なものの拒否はキリスト教的であるとしている。

 

 

 

(43)ある著者たちは、自分の著作について話す時、「私の本、私の注解、私の物語、等々」と言う。そう言う彼らは、一戸を構え、いつも「拙宅では」を口にする町人臭がぷんぷんしている。彼らはむしろ、「われわれの本、われわれの注解、われわれの物語」というほうがよかろう。というのは、普通の場合、そこには彼ら自身のものよりも他人のもののほうが、よけいにはいっているからである。
『世界の名著パスカル パンセ』 前田陽一・由木康訳 中央公論社

 

 


 一人の思考は突き詰めていけば、仏陀自然数の系の肯定/否定の、「選択の」選択の拒否で留まる。「必要条件」と「十分条件」を得た場合、「条件」を越えている。ヘルマン・ヘッセが『シッダールタ』を記したように、賢い「個人」が、東洋的なものに魅かれるのは正常なことである。

 

 

創世記 
(4:1)人はその妻、エバを知った。彼女は身ごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によってひとりの人を得た」。
(4:2)彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕すものとなった。
(4:3)日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
(4:4)アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
(4:5)しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
(4:6)そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
(4:7)正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
・・・・・・
(4:13)カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
(4:14)あなたはきょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見つける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
(4:15)主はカインに言われた。「いや、そうではない。だれでもカインを殺すものは七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付けるものが、誰も彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

 

 

 

伝道の書
(1:1)ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
(1:2)伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
(1:3)日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
(1:4)世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない。
(1:5)日は出で、日は没し、その出たところに急ぎ行く。
(1:6)風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐるところに帰る。
(1:7)川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
(1:8)すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
(1:9)先にあったことは、また後にもある、先になされたことは、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

 

 


 カインのように不平を言うが、カインのように敬虔ではない者がはびこる。キリストを知ることがなかったソロモンより賢くないが、ソロモンのように嘆いて人を裁く者が現れる。

 


 おそらく、アメリカやスイスで裁判官を務めることは、我が国で裁判官を務めることと、大きく異なるのだろう。日本国憲法第十九条は、「思想および良心の自由はこれを侵してはならない」としている。西欧諸国一般においては、「freedom of thouhght and conscience思想および良心の自由」は、言論、出版などとの関わりで運用される。また、良心の自由は、宗教とのかかわりで運用される。

 


 同語源の「conscience良心」と「conscious意識」に区別を生まなくてはならなかったことは、近代人の思考の理解に役立つ。「liberal arbitrum自由意思・意志」が、「free will自由意思・意志」に簡略化されたともいえる。この思考は結果として、自らに利益があるために「多様さ」を認め、自らに利益がないならば、「存在しない」「自明である」「選択肢にない」・・・・・・などとして拒絶するという判断に帰着する。

 

 情感とは、知っている言葉以上を示したい、知っている言葉以上の者でありたいという欲望である。未開人が近代人より感情表現に乏しいならば、その少ない語彙で自らについて弁明するのは構わない。野獣ではないのだから、喚くだけでは弁明と言い難い。概して思考能力の衰えより、身体能力の衰えの方が目につく。階級としての科学者は、自らの選好を批判せず、「知識が普遍に価値を有する」と主張する。おそらくニーチェマルクスは誠実だったのだろう。

 


彼らは共産主義的な体系や批判や論争書を現実の運動から―前者は後者のたんなる表現であるのに―取りはずし、ついで、それらをドイツ哲学との勝手気ままな連関のなかへ持ちこむ。彼らは歴史的に制約された一定の生活領域の意識をこの生活領域から切り離し、それを真の、絶対的な、すなわちドイツ的=哲学的な意識で測る。彼らはまったく首尾一貫してこれらの特定の個人たちの状態を「人間なるもの」の状態に変えるのであり、これらの特定の個人たちが自分たちの自身の状態についてもっている思想を、これは「人間なるもの」についての思想だと解するのである。
マルクスエンゲルス全集3 ドイツ・イデオロギー』 真下信一訳 大月書店 1963年 494頁

 


 問答形式は或る学問の初学者に役立つが、或る学問を創る研究者には役に立たない。ピタゴラスの述べるように「2+3」が結婚かはわからない。「有限と無限」「奇数と偶数」「男と女」といった対立を好んだピタゴラスが、「名数」という考え方を受け入れるかは不明である。パスカルは、人は考えるために造られている、と述べている。ユダヤ教では、安息日に傘を差してはいけないらしい。また、男性の同性愛に厳しいが、女性の同性愛にはそれなりに寛容だという。そんなものなのかなあと思います。

 

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付記
 mashではなくmushです。ナス科の植物にのみmashを用いるという慣例はないでしょうが、他人がカボチャなのではないかと疑います。この場合のカボチャは「squashウリ」です。下半身は不可欠です。ラインのメッセージくらいの文章にすべきでしょうか? だれか海藻とビタミンに関する研究を知りませんか?