note3 続

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付記

「hypothesis仮説」・「theory理論」は、いわゆる「科学的か否か」に関らず、どのようなものであっても構いません。どのような者でも視点を持ち、それゆえにどのような者でも自らは「rational合理的」であると言えます。

 

(産業に対して合理的、市場に対して合理的、家長権に対して合理的・・・・・・などの含みはありません。暗黙の了解とされるこれらはむしろ、「経済合理的な合理性」、と表現した方が適切です。「合理的」は語源から考えても、「非動物的」くらいの含みが適切です。)

 

例えば、世界各地の「世界の卵生神話」や、幽霊がいるか否かの素朴な伝聞による証明は合理的です。また、立証、比較・検証の手順は時代により様々です。(「神話」「伝聞」「証明」といった学問的な諸前提、軽蔑的な含みのある概念を持ち込むため、「合理性」に不要な前提がつけられます)

 

 これは特に社会科学において顕著です。「仮説」・「理論」は言葉通りの意味でだれにでも(つまり、「仮説」・「理論」はどれほど単純であってもよく、もっとも単純なものは同義反復であり)作れます。前提の無批判な受け入れ、循環論法を含んでいても「仮説」・「理論」は発生します。

 

 ようするに「仮説」・「理論」の有意義な否定は、対象との比較・検証に基づき『「仮説」・「理論」ではない』ではありません。対象には『「理論」・「仮説」が存在しない』、または、対象との比較・検証がどのような手順によっても可能でないため『「理論」・「仮説」と表現できない』となります。