note12 続

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われわれは、どんなものにも その起源はただひとつしかなかったに相違ないと考えがちであるが、いやしくも科学的理論、その発見と考察に関するかぎりでは、完全に独立し、並行する思想的系譜が2つ以上の地域に実在した可能性を、避けるわけにはいかない。

『中国の科学と文明 第一巻 序編』 ジョゼフ・ニーダム ――訳 思索社 1991年 149頁 

 

 

以下の引用の表現には特に注意が必要です。 

 

墨家がここで、科学的な推論のさまざまな形式を定義しようと試みていることは、きわめて明白である。不幸にも、彼らはいわば模索中なのであり、、われわれは常にその原文に信を置けないことを勘定に入れなければならない。

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(3) ’モデル思考’(model-thinking)は、(大自然の)方法を手本とすることにより成り立つ

 ’モデル思考’において手本とされるものが、方法である

 ゆえに仮にもしその方法が真に’モデル思考’によって手本とされる(文字どおりにいえば、その中心に当たる)ならば、推論は必ず正しくなる。

 しかし、もしその方法が真に’モデル思考’により手本とされないならば、推論は必ず不正となる。これが’モデル思考’である。

 

 このようにすれば、認識される原因の数は大量の現象よりずっと少なくなるので、このモデル思考は実際上演繹となるのである。

 このようなモデル思考に関する墨家の議論が、特に(しかしそれだけではないが)比較的精度の劣る科学において、科学的’モデル’の論理をめぐって交わされている当代の論議で進展されつつある考察と強い類似性を有していることは、必ずや読者の注意を引くに違いない。

 

『中国の科学と文明 第二巻 思想史 上』 ジョゼフ・ニーダム ――訳 思索社 1991年 149頁 

 

 

注釈

連続と(行為の)進行は異なります。日常の中で使われる数概念は、連続量と分離量などについて考えなくても、その用に足りることが多いため、概念が混在することになります。

 

ユークリッド互除法の「modulo法」の翻訳は、中国の法家の灌漑工事を思わせますが、同語源の「moduleモジュール」は、律令くらいに人為的な(有機的な)要素が含まれます。

 

いわゆる中国の天・地・人の世界観では、思想としてその中の一つに見つけられた「構造」を他のにも対応させようとする意志が働いています。