「人間は誰でも各々のとらぬ狸を持っている」(9)

scienceーsciences(科)学
argue主張するargument引数/偏角/論
mathematics数学theology神学
scientia est potentia知は力なり(―knowledge is power知は力なり)


 数学は、数学が真だと証明をすべきではない。数学者の人数に依るべきではない。数学または神学は連続した一つの拡張である。或る学問は数学の定めた公理を援用する。

 

 ヨハネによる福音書
(8:12)イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう」。
(8:13)すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。
(8:14)イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。
(8:15)あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。
(8:16)しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしは一人ではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。
(8:17)あなたがたの律法には、二人による証言は真実だと、書いてある。
(8:18)わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかししてくださるのである」。
(8:19)すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのか」。イエスは答えられた、
(8:20)あなたがたは、わたしをもわたしの父をも、知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」。
……
(8:23)イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出たものだが、わたしは上からきたものである。あなたがたはこの世のものであるが、わたしはこの世のものではない。 

 

 (12)一つのことしか考えないスカラムッシュ。 —— 何もかも言ったあとで、まだ十五分間もしゃべるほど、言いたくて仕方がない博士。
(43)ある著者たちは、自分の著作について話す時、「私の本、私の注解、私の物語、等々」と言う。そう言う彼らは、一戸を構え、いつも「拙宅では」を口にする町人臭がぷんぷんしている。彼らはむしろ、「われわれの本、われわれの注解、われわれの物語」というほうがよかろう。というのは、普通の場合、そこには彼ら自身のものよりも他人のもののほうが、よけいにはいっているからである。
(61)順序。 私はこの論述を次のような順序で始めることも、あるいはできたであろう。あらゆる境遇のむなしさをを示すために、普通の生活のむなしさ、ついで懐疑論およびストア派の哲学的生活のむなしさを示すのである。しかし、この順序は守られないであろう。わたしは順序というものがどういうものであるか、そしてそれを理解している人がいかに少ないかということを、いささか心得ている。人間的な学問は一つとしてそれを守ることができない。聖トマスはそれを守らなかった。数学はそれを守るが、その深みにおいて無益である。
(115)多様性。 神学は一つの学問である。しかし同時にいくつの学問であろう。
(148)われわれは、全地から、そして我々がいなくってから後に来るであろう人たちからさえ知られたいと思うほど思い上がった者であり、またわれわれをとりまく五、六人からの尊敬で喜ばせられ、満足させられるほどむなしいものである。
(260)彼らは多数の中に隠れ、自分らの助けとして数を求める。 喧噪。 権威。 あることを人から聞いたということが、君の信じる基準になってよいどころか、それをいまだかつて聞いたことがないような状態に自分を置いたうえでなければ、何も信じてはいけない。
(775)omnesをいつも「みな」と解する異端があり、またときによって「みな」と解しない異端がある。『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一・由木康訳 中央公論社 1978年

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subject主体object客体 


情報は、文献の引用や翻訳などとは関わりがない。文献の引用の様式、文献と記憶の差異は慣習による。ルネサンスの文芸復興、ヴルガータ訳聖書の批判から考えなさい。「hypothesis仮説」「abductionアブダクション」を考えなさい。

 ヨハネによる福音書

(9:7)そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
(9:8)わたしより前に来た人はみな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
(9:9)わたしは門である。わたしをとおってはいるもの救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
(9:10)盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
……
(9:14)わたしはよい羊飼であって、わたしの羊であり、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
(9:15)それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
(9:16)わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼となるであろう。
(9:17)父は、わたし自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。

 

 (222)なぜ処女には子を生めないのか。雌鶏は雄鶏なしでも卵をこしらえるではないか。何がその卵を外から他の卵と区別するのだろう。また雌鶏が雄鶏と同じように種子をつくることができないと、誰がわれわれに言ったのだろう。
(27)雑、言語。ことばに無理じいして対照法(注釈 antitheses)をつくる人は、均整のためにめくら窓をつくる人と同じことをやっている。彼らの方針は、正しく話すことではなく、修辞学の型に正しくのっとることなのである。『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一・由木康訳 中央公論社 1978年

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oxymoron撞着語法