「 逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」'Here in America, is very good, everyone watch television. In old country, television watch you!'(11)

method方法/探求への道

(ⅰ)antikeimenon互いに対立しあうもの(ⅱ)hypokeimenon(subject)下に置かれたものantikeimenon向こう側に置かれたもの (ⅲ)antikeimenons思考や感覚の働きに対置されるものアリストテレスについて、問答法の技術的な性格、読書行為から考えなさい。

そこで、(ⅱ)かりに点という意味での部分によって知性認識するのであり、点は無限にあるとすれば、明らかにそれを最後まで行き尽くすということはけっしてないであろう。他方で、(ⅰ)大きさを持つという意味での部分であれば、同じものを数多くあるいは無限回も知性認識することになるだろう。しかし一度だけでも知性認識することができることは明白である。また、どの部分であってもそれが接触するだけで知性認識するに十分であるとするならば、なぜ知性は円環運動する必要があるのだろうか、いやさらに、そもそも一般的に大きさを持つ必要があるのだろうか。
 だが、もしも(2)知性認識するのには円環の全体で接触するのでなければならないとするならば、部分による接触とはどのような意味をもつというのか。
 さらに、(3)部分をもたないものによって部分に分かたれたものを知性認識したり、部分に分かたれたものを知性認識したり、部分に分かたれたものによって部分をもたないものを知性認識することは、いったいどのようにして可能だろうか。
 しかし、知性はこのような円環でなくてはならないはずである。なぜなら、知性の動きは認識活動であり、円環の動きは回転だからである。そこで、知性認識活動が回転であるとすれば、知性認識活動であるそのような回転が属す円環は知性であることになるだろう。
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 またさらに、知性認識は動よりも一種の静止や停止に似ている。同じことが推論についても当てはまる。『アリストテレス全集 7』 「魂について」 中畑正志・坂下浩司・木原志乃訳 岩波書店 2014年 40頁

 

しかしまた、同一のものは、それが分割されないものであり、また分割されない時間のうちにある限りにおいては、反対の動(運動変化)を同時に動くことは不可能である。実際、もし対象が甘ければ、特定の仕方で感覚や知性認識を動かすが、苦いものはそれとは反対の仕方でそれらを動かし、白いものはまたそれとは別の仕方で動かすのである。『アリストテレス全集 7』 「魂について」 中畑正志・坂下浩司・木原志乃訳 岩波書店 2014年 134頁

 

だが誰であれ、それら四つのそれぞれがそれだけ単独で言われているのを、われわれが命題もしくは問題だと言っていると解してはならない。そうではなく、それらから、問題や命題が生じるというのである。問題と命題の違いはその表現の仕方にある。つまり「はたして「二足陸棲の動物」は人間の定義式であるか」とか、「はたして動物は人間の類であるか」というような仕方で言われれば、それは命題となるし、「二足陸棲の動物」は人間の定義式であるか否か」と言われれば、それは問題となるのである。これは他のものの場合にも同様である。その結果、問題と命題が数の点で等しいのは当然である。どんな命題からでも、その表現の仕方を変えれば問題を作ることができるのだから。『アリストテレス全集 3』 「トポス論」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 28頁

 

ところで、無条件には、より先なるもののほうがより後のものよりもよりよく知られる。たとえば、点のほうが線よりも、線のほうが面よりも、面のほうが立体よりもよく知られる。ちょうど「一」のほうが数よりもよく知られるように。なぜなら、「一」は数よりも先なるものであり、あらゆる数の始原であるのだから。『アリストテレス全集 3』 「トポス論」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 232頁

 

また、相手が関係的なものについて、それらの種差を他のものと関係させて与えていないのかどうかも見る必要がある。なぜなら、関係的なものの種差もまた、関係的なものなのだから。ちょうど、知識の場合がそうである。というのは、知識は観想的と、実践的と、創作的と語られるが、これらのそれぞれは何かとの関係を示しているからである。すなわち、それらは何かを観想することのできるもの、何かを作ることのできるもの、何かを実践することのできるものなのだから。『アリストテレス全集 3』 「トポス論」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 246頁

 

 知識はおそらく無限にあり、それゆえ論証もまた無限にあることは明らかであるから。他方で、論駁には偽のものだけでなく、真の論駁もある。それは、論証が成立する数だけ、真理に矛盾した提題を立てる人を論駁することもできるからである。例えば、もし或る人が「正方形の対角線は、辺と通約可能である」と提題を立てたら、問い手は「対角線は、通約不可能である」と論証することで論駁できる。『アリストテレス全集 3』 「ソフィスト的論駁について」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 399頁

 

 ここで「見かけの(パイノメノン)」とは、どんな人にもそう見えるのではなく、特定の人々に対するものである。それは、もし偶々出くわす人々に対して論駁に見えるのが、いくつの論点に基づくのか考察してみても、際限のない仕事だからである。『アリストテレス全集 3』 「ソフィスト的論駁について」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 401頁

 

さらに、真理が二様に考えられている場合、人はとりわけこういった命題について、名辞の意味を転用しても気づかれないだろう。一方で、真理がどちらの仕方であるか不明瞭な場合、ソフィスト的詭弁に引っかかているとも思われず、他方、二様に考えられている場合、虚偽を語っているとは思われないからである。意味を転用する、つまり、メタファーを作ることは言論を論駁不可能にするのである。
 さらに、問われることを予め感じ取っている限りのものは、予め反論しておくか、予め断っておくべきである。そうしておけば、問い尋ねる者が自分を論駁することを、とりわけ阻止できるだろうから。『アリストテレス全集 3』 「ソフィスト的論駁について」 山口嘉久・納富信留訳 岩波書店 2014年 429頁

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spectacleスペクタクル
stereographic projectionステレオ投影manifold多様体
knowledge theory認識論cognition認知

 

Itself自体
(ⅰ)tautology同義反復

(ⅱ)empty set空集合(tautology同義反復)

(ⅲ)metonymy換喩

(ⅳ)synecdoche提喩である。(科)学の分離、唯物論、資本家と労働者と作業機械から想像しなさい。方法を不当に用いることで、疑似問題(鳩のイデアクオリアパラドックスなど)が供給される。

 

 これらの学派は成功に威を借りてしだいに教条主義的になり、根本的な詭弁を絶えずくりかえす。哲学と認識論に起源を置く空間が物神化され、心的な領域が社会的・身体的な領域を包みこむようになる。これらの著者たちの中には媒介の存在やその必要性についてうすうす気づいている者もいるが、ほとんどの者が何のためらいもなく心的なものから社会的なものへと飛躍する。『空間の生産』 アンリ・ルフェーブル 斎藤日出治訳 青木書店 2005年 40頁

 

 空間をあらわにすることができるのは空間それ自身によってであると言われる。(「同義反復」としても知られている)この手続きは、たやすく濫用され使用される周知の方法を濫用し利用する。それは部分から全体へと移行する換喩という手続きである。『空間の生産』 アンリ・ルフェーブル 斎藤日出治訳 青木書店 2005年 160頁 

 

 方法論からすると、あらゆる科学的方法は最初から還元によっておこなわれなければならない。専門家の不幸のひとつは、専門家が還元のなかに身を落ち着け、そこに穴を掘ってその穴の中に幸福と確実性を見出しているということである。自分の「分野」をはっきりと限定する専門家は、わずかなりとも何かに取り組む意志があるかぎり、その分野で何ごとかをなしうるにちがいない。専門家が何を選択し何を「開拓する」かを決定するのは、その専門分野における領域的条件であり、知の市場におけるその専門的分野の位置である。だが専門家が知りたがらないのはまさにそのことである。専門家は自分の専門分野を成り立たせている還元に対して、それを正当化する態度をとる。つまりそれは否認の態度である。『空間の生産』 アンリ・ルフェーブル 斎藤日出治訳 青木書店 2005年 174頁

 

 (19)スペクタクルは、人間の活動を、見るというカテゴリーの支配下で理解した西洋哲学の企図の持つ弱点のすべてを受け継いでいる
(25)分離こそがスペクタクルのアルファでありオメガである。労働の社会的分割の制度化と諸階級の形成とが、聖なるものに対する最初の凝視を生み出した。それは、あらゆる権力がその起源の時点から己の身を包み込んでいた神話的体制である。聖なるものは、支配者たちの利害に適った宇宙的・存在論的秩序を正当化し、社会が行いえないことを説明し、それを美化したのである。分離された権力は、それゆえ、すべてスペクタクル的だった。だが、ある不動のイメージへの万人の賛同というものは、現実の社会的活動の貧しさを想像によって引き延ばすことを全員が承認したということを意味したに過ぎない。この社会的活動の貧しさは、自分たちの統一的条件として、まだ広く感じられていたのである。現代のスペクタクルは、逆に、社会のなしうることを表現する。しかし、この表現においては、許可されることは可能なことと絶対的に対立している。
(29)……スペクタクルの具体的存在様態とは、抽象化にほかならないからである。スペクタクルにおいて、世界の一部がこの世界の前で演じられ〔=代理―表象され〕、しかもそれはこの世界よりも優れたものなのである。
(34)スペクタクルとは、イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本である。『スペクタクルの社会』 ギ―・ドゥボール 木下誠訳 ちくま学芸文庫 2003年

 

 (194)今日、スペクタクルの思考として発展し続けている知識の全体は、正当性のない社会を正当化し、虚偽意識の一般的科学として自らを構成せざるを得ない。この思考は、スペクタクルのシステムの中にある自らの物質的基礎を思考できず、思考したいとも思ってもいないという事実に、完全に条件づけられている。
(195)外観を社会的に組織する思考はそれ自体、それが擁護する低ーコミュニケーションの一般化によって蒙昧化する。この思考は、自らの世界のあらゆるモノの起源には衝突があったのだということを知らない。スペクタクルの権力――応答なきその言語システム内部の絶対権力――の専門家たちは、軽蔑と軽蔑の成功を経験することによって、絶対的に腐敗した。『スペクタクルの社会』 ギー・ドゥボール 木下誠訳 2003年

 

 ……学説のためなら王国もくれてやろう! 王国のためなら学説もつくろう!はじめに革命の内気な呼び名である「事件」がやってくる、あとから学説がやってきて、その「事件」をちょろまかしてしまう。
……こうしてガチョウから卵が生まれ、卵からガチョウが生まれる。『マルクスエンゲルス全集5 5月30日の会議におけるカンプハウゼンの声明』 村田陽一訳 大月書店

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negation否定double negative二重否定