ルカによる福音書 (23:43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

マタイによる福音書
(18:6)しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

 

(56)「私は不安に満ちた精神を持っている」。「私は不安に満ちている」のほうがよい。

(248)信仰は証拠とは違う。後者は人間的であるが、前者は神の賜物である。『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一、由木康訳 中央公論社 1978年

 

おおよそ、(希)Psyche(羅)anima(独)Geist(英)soulは、「魂」と翻訳される。おおよそ、(羅)spiritus(独)Geist(英)spiritは、「精神」と翻訳される。おおよそ、(希)pneuma hagion(羅)spiritus sanctus(英)holy spiritは、「聖霊」と翻訳される。(希)pneumaは「息吹」を意味し、古代ギリシアにおいて医学用語として用いられ、熱と湿り気を含意した。

 

sand砂の数え上げは難しい。「魂」は見えない、とされる。「魂」が目に映らなくても、しばしば、魂の有無が言及される。「魂」が引き起こす(working作用)action行為は見える、と主張される。慣用からすれば、「諸物の調和した、調整された状態と、知的活動の(cause)factor原因」である。

 

マケドニアアリストテレスは、特異な感情の高ぶりの伝染、熱い友情をプラトンと同様に、「一つの魂が二つの肉体に宿る」と表現しえた( * 『仕事と日』ヘシオドス)。しかし、'Psyche'への解釈の権威は認められず、おおよそ、感情と思考に関わる自然の中におけるギリシア人の特異な地位が'Psyche'に結び付けられる。
  

 知識はおそらく無限にあり、それゆえ論証もまた無限にあることは明らかであるから。他方で、論駁には偽のものだけでなく、真の論駁もある。それは、論証が成立する数だけ、真理に矛盾した提題を立てる人を論駁することもできるからである。例えば、もし或る人が「正方形の対角線は、辺と通約可能である」と提題を立てたら、問い手は「対角線は、通約不可能である」と論証することで論駁できる。 399頁

  ここで「見かけの(パイノメノン)」とは、どんな人にもそう見えるのではなく、特定の人々に対するものである。それは、もし偶々出くわす人々に対して論駁に見えるのが、いくつの論点に基づくのか考察してみても、際限のない仕事だからである。401頁

 さらに、真理が二様に考えられている場合、人はとりわけこういった命題について、名辞の意味を転用しても気づかれないだろう。一方で、真理がどちらの仕方であるか不明瞭な場合、ソフィスト的詭弁に引っかかているとも思われず、他方、二様に考えられている場合、虚偽を語っているとは思われないからである。意味を転用する、つまり、メタファーを作ることは言論を論駁不可能にするのである。

 さらに、問われることを予め感じ取っている限りのものは、予め反論しておくか、予め断っておくべきである。そうしておけば、問い尋ねる者が自分を論駁することを、とりわけ阻止できるだろうから。429頁

アリストテレス全集 3』 「ソフィスト的論駁について」 納富信留め、山口嘉久訳 岩波書店 2014年 

 

 ……アリストテレスが引き合いに出している暗黙の知識は、人がヘラスに所属するものであるということと結びついている。「だれもが」は「すべてのギリシア人」であるのであって、事実、ペルシア人はその知識からは除外されているのである。わたしたちが知っているように、ギリシア文明はペルシア人に対抗して、さらに一般的には蛮族たち〔ギリシア語を話さない諸民族〕に対抗して起ちあがることによって、自己を確立したのであった。しかし、アリストテレスは、これとはまた別のことをもわたしたちに告げている。『弁論術』において分析されている言説―公共の広場や法廷で話される言説―は特殊な共同体に差し向けられるものであって、理性的動物としての人間たちに差し向けられるのではない、というのがそれである。レトリックが作動するのは蓋然的なものの領域においてであって、科学的真理の領域においてではない。しかも、それは無邪気な自民族中心主義からさえもはるか隔たったところにあるごく狭く限られた視界の内部で作動しているのである。『歴史・レトリック・立証』 カルロ・ギンズブルグ 上村忠男訳 みすず書房 2001年 43頁 

 

ヨハネによる福音書

(21:20)ペテロは振りかえると、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者はだれなのですか」と尋ねた人である。

 

記述行為は表現の選別と、表現の決定を伴なう。福音記者の象徴は、マタイは人、マルコは獅子、ルカは雄牛、ヨハネは鷲とされている。象徴は、マタイが人、マルコが雄牛、ルカが鷲、ヨハネが獅子である。

 

マタイは取税人、マルコは書記、ルカは医者、ヨハネは漁師である。マタイによる福音書は、perspectivityとして包んで落とされる( * 「聖霊に感じる」)。マルコによる福音書は、reproductivity再現性として包んで落とされる。ルカによる福音書では、contingency偶有性として包んで落とされる( * 「聖霊に満ちる」)( * 二人の罪人)。ある集団の非成員と、その集団の関係は偶有性に類似する。ヨハネによる福音書は主体として記述される。非主体としての「客観性」はない。

 

f:id:cunsong9403:20190128184248j:plain

https://digitalcollections.nypl.org/
IMAGE ID 1524081