ルカによる福音書 (23:43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

マタイによる福音書
(18:6)しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

 

 つまずいた子供は、「つまずいていない」と言い張る。その様な子供はよく育つ強い子供である。「痛まないか」と聞けば、「痛まない」と答える。 その様な子供はよい子供である。困った子供とも言える。アリストテレスは『On the soul霊魂論』を著した。魂は soul anima である。霊、精神は pneuma spirit Geist である。これにしばしば temperament気質 が加わる。気質は西ヨーロッパの特殊性である。psycheについては述べない。

 

 sand砂 は数で捉えるのが難しい。rice米を数で捉えるのが難しい、とイギリス人が言うなら諦める。わたしは soul魂 は見えないと思う。 oats燕麦 と違い、粒を数え上げるのは難しい。わたしは「特定の個人が(複数の)魂(的な何か)を有する」という理解を拒まない。魂は土地の慣習を含み、現代的には「知的活動(の原因)」で構わない。教会は魂に関する知識を獲得する難しさを述べてきた。アリストテレスは、完全なる男性は、女性には欠けている上位の魂を有すると考えた。奴隷には係る上位の魂は備わっていない。

 

 「動物の有する魂」は争いのある表現である。わたしはハエに下位の、または、比較的小さな魂が宿るという考えを拒まない。「特定の人の有する魂」は適切な表現である。魂を持たないなら人間ではない。「(同質(=魂)であるがために共通の)人々の有する複数の魂」は適切だが冗長である。「人々の有する魂」は、(ⅰ)余分である(ⅱ)擬人法を用いている、となる。(ⅱ)の場合「people人々」以外の名詞を用いることを薦める。「特定の共同体の有する魂」は擬人法である。「特定の人に働く(働いている)霊・精神」は適切な表現である。「特定の人の有する霊・精神」はあまりよくない。「霊に導かれた特定の人の行為」は適切な表現である。「特定の共同体に働く(働いている)霊・精神」という表現が適切かは、場合による。わたしは「特定の共同体に満ちている霊・精神」の方が適切だと思う。特定の共同体の有する霊・精神」 はよくない。演説の場で霊・精神の不在を説くのは、相応の準備を要するのは理解できる。

 

 教会に来る人間は皆弱い。人間は弱い生き物である。黙り耐える姿は美しい。黙り耐えることを勧めなくてはならない。どれだけ騒々しいかで、人の苦しみを判断する社会は望ましくない。具体的な人間のstate状態を、病名、障害で処理することは望ましくない。聡い子供は、自分の感情を耐えて外に現さないことを学ぶ。よくない子供は、自分の感情を外に見せびらかすことを学ぶ。耐えられる限りの職を自らに任ずるのはよいことである。耐えられない職を引き受けるのは傲慢である。人間は人の苦しみを量で計れない。

 

 人が苦しみに耐えても、耐えた者の苦しみが少ないとは言えない。拷問と殉教でも、抜歯の苦痛でも、苦しみを減じたいと考えるべきだろう。他人の苦しみを増やしたいと考えるのは悪い。歴史の中でギャンブル、淫蕩、飲酒に捕らわれる弱い人を教会は迎えた。耐えられない職を引き受けるのは傲慢である。教会と修道院は弱い人間のためにも拡散した。人間は弱い生き物である。定めない人間は弱さを自覚しなくてはならない。人間は老いれば、誰であっても弱さを自覚する。長者は財産を失っただけで随分と弱る。聖職と悪人の悔悛は、どの宗教にも見られた物語である。努力して財産を蓄えた者に、謙遜を勧める者が少なく、反って欲望の発散を勧めるから、今は悪い時代である。

 


ヨハネによる福音書
(21:20)ペテロは振りかえると、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者はだれなのですか」と尋ねた人である。
ルカによる福音書
(23:43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

 

 文献資料は、基本的に、その時代を生きている人々に向けて書かれている。ヘロドトス、トゥキュディデスなど、歴史家、または、考古学者は、後世への記録としての文献資料、という考え方を持ち得た。未来に向けて書こうとする者は少なく、未来の全ての時代で読者に同じ効果を与えるように意図した資料は少ない。マルティン・ルターを含むプロテスタント神学者は、『ヨハネによる福音書』とパウロ書簡を高く評価したという。「高く評価する」とは、不遜な表現であり、本人たちはより謙虚な表現を用いたはずである。ルネサンス以来の個人が、ヨハネによる福音書を好むのは理解できる。人々がルカによる福音書を好み、高等批評家がマルコによる福音書を評価するのは意外ではない。

 

 マタイは取税人(1/1)であり、マルコは書記(1/0)であり、ルカは医者(0/0)であり、ヨハネは漁師(0/1)である。マタイによる福音書では、旧約聖書との連続(-性)から予め示されていたことと、キリストにより為されたこととの一致が描かれる。perspective先見的な意味で客観性となる。読者に示された対象は、則ち特定の客体となる。マルコによる福音書では、二次的な記述として描かれる。可換性、再現可能性としての客観性となり、特定の客体が対象となる。ルカによる福音書では、兄弟となるだろう異邦人としての視点が擬制される。意識(contingency偶有性)から描くという性質から、ルカによる福音書に「二人の罪人」が置かれねばならない。第三者としての客観性、不特定の客体が問題となる。ヨハネによる福音書は、主体として描かれている。、特定の個人の置かれたsituation状況での行為への寛容、知識と判断に限界のある人間が描かれる。西方教会では福音書記者を象徴で表す伝統があり、マタイは人、マルコは獅子、ルカは雄牛、ヨハネは鷲とされている。マタイが人、マルコが雄牛、ルカが鷲、ヨハネが獅子である。

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