マタイによる福音書 (13:33)また他の譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」

ヨハネによる福音書

(21:24)これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのはこの弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。

(21:25)イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。

  

(82)想像力これは人間の中のあの欺く部分のことである。あの誤りと偽りとの主であり、いつもずるいと決まっていないだけにそれだけいっそうずるいやつである。なぜなら、もしそれが嘘の間違いのない基準だったら、真理の間違いのない基準となっただろうから。

 ところが、それは、たいていの場合に偽りだというのだから、真にも偽にも同じ印をおして、自分の正体を少しもあらわさない。私は愚かな人たちについて話しているのではない。最も賢い人たちについて話しているのである。こういう人たちのあいだでこそ、想像力は人々を説得する大きな権限を持っているのである。理性がいかにわめいても無駄で、理性には物事に値段をつけることができない。『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一、由木康訳 中央公論社 1978年

 

人は、落ち着くために、「落ち着いた状態である」を表示するために、「息」を意識するのがよいと知る。中世、世界地図は円形に描かれた。Icon、Mniature細密画は、偶像崇拝ではない。 イコンは平面に書かれる。カトリックにおいては立像の使用が認められる。ローマ・カトリック、正教、プロテスタントの一部において、聖人の崇敬は、信仰における一定の役割を果たす、と認められている。

 

コーラン』はアラビア語以外の言語への翻訳不(可)能、とされる( * 'reproductivity')。『コーラン』には、唯一神への「99の美名」があり、それぞれが神の属性を、象徴から表せるという( * hâna居酒屋)。ムハンマドは終末までに共同体が73に分かれ、一つの共同体のみが選ばれる、とした。イエス・キリストは、終末までに多数の反キリストが現われるだろう、とする。

  

マルクス唯物史観は、歴史家の歴史認識、歴史叙述に影響を与えた。歴史家の歴史批判、歴史家の歴史家批判が根本的になる( * 口述筆記)。叙述された歴史、資料解釈と実証の論争はより激しくなる。とりあえず、約二千年前にキケローは、『論点集』で’ut si quis jus in legem, morem, aequitatem dividat’と言えた。 

 

(もし強いて分類が必要とあるならば)何も神の意志だなどと言う仮定の上にではなく、むしろ人が常に、または時々に、それとも常に時々に為すところの行為を基礎として、分類したほうがまだしも賢明であり、確実だったであろう。目に見える業において、もしわれわれが神を理解できないとするならば、どうしてそれらの業を業たらしめる、いわば理解を絶した思惟において神を知ることができようか。客観存在としての被造物においてすら、神を理解することができないものが、どうして創造という実存的な形相において理解することができようか。『ポオ小説全集4』「天邪鬼」E・A・ポオ 中野好夫訳 東京創元社 2004年 189頁

 

マタイによる福音書

(5:38)『目には目を。歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

(5:39)しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、他の頬をも向けてやりなさい。

(5:40)あなたを訴えて、下着をとろうとする者には、上着をも与えなさい。

 

知識はおそらく無限にあり、それゆえ論証もまた無限にあることは明らかであるから。他方で、論駁には偽のものだけでなく、真の論駁もある。それは、論証が成立する数だけ、真理に矛盾した提題を立てる人を論駁することもできるからである。例えば、もし或る人が「正方形の対角線は、辺と通約可能である」と提題を立てたら、問い手は「対角線は、通約不可能である」と論証することで論駁できる。 399頁

  ここで「見かけの(パイノメノン)」とは、どんな人にもそう見えるのではなく、特定の人々に対するものである。それは、もし偶々出くわす人々に対して論駁に見えるのが、いくつの論点に基づくのか考察してみても、際限のない仕事だからである。401頁

 さらに、真理が二様に考えられている場合、人はとりわけこういった命題について、名辞の意味を転用しても気づかれないだろう。一方で、真理がどちらの仕方であるか不明瞭な場合、ソフィスト的詭弁に引っかかているとも思われず、他方、二様に考えられている場合、虚偽を語っているとは思われないからである。意味を転用する、つまり、メタファーを作ることは言論を論駁不可能にするのである。

 さらに、問われることを予め感じ取っている限りのものは、予め反論しておくか、予め断っておくべきである。そうしておけば、問い尋ねる者が自分を論駁することを、とりわけ阻止できるだろうから。429頁

アリストテレス全集 3』 「ソフィスト的論駁について」 納富信留、山口嘉久訳 岩波書店 2014年 

  

「長い」の反対に「長くない」を置くことは、子どものケンカか、鏡との対話を思わせる( * positive-negative正負)。手続きとして、方向を固定しなくてはならない( * 『フーガの技法』)。平面を与えて視覚化するからには、「物体を配置し仮想として図示すればこの様である」という暗黙の了解の下、図示されていた、と考えねばならない( * 'retorograde'「逆行」)( * complete opposite正反対)。

  

おおよそ、生活の変化が少ない地域では、種類との曖昧から、事物が象徴化され、生活に神秘が与えれる。「職」と生活が、神秘として様式化している( * dativus与格,genetivus奪格)。カテゴリー(らしきもの)が、「漠然と出没しているもの」を脱しない。

 

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https://www.metmuseum.org/

Artist:Unidentified Artist
Period:Meiji period (1868–1912)
Date:1887
Culture:Japan
Medium:Polychrome woodblock print; ink and color on paper
Dimensions:Image: 14 3/4 x 10 1/2 in. (37.5 x 26.7 cm)
Classification:Prints
Credit Line:Bequest of William S. Lieberman, 2005
Accession Number:2007.49.329