マタイによる福音書 (13:33)また他の譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」

マタイによる福音書

(7:1)「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
(13:33)また他の譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

 

創世記
(4:9)主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
(4:10)主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
(4:11)今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。
(4:12)あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。
(4:13)カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
(4:14)あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。

 

教会はキリストの花嫁である。女性の性染色体はXXであり、男性の性染色体はXYである。X_がgeneral一般、_Yがspecial特殊である(「アベルとカイン」、ローマ伝承、レムス:(先)6羽のコンドル、ロムルス:(後)12羽のコンドル、「高皇産霊神」?)。アリストテレスのGolden Mean中庸が、(ⅰ)母親(姑)と、妻と夫(ⅱ)第一次世界大戦のイギリス、といった日和見マキャベリズムと異なるのは明らかである。アリストテレスが(ⅰ)をどのように捉えるかはわからない。おそらく、口を出したがらないだろう、孔子の中庸が、日和見マキャベリズム、Golden Meanと異なるのは明らかである。孔子は(ⅰ)では母親を敬うように、と述べる。仏教は仏教徒を名乗る者たちが多様にした、一概に述べられない。「蕾」(thesis)と「実」(synthesis)の中間(antithesis反)は「花」である。「粥」と「パン」の中間(反)は「麺」だろう。

 

王の存在は神聖さ(のみ)により成り立つという集団的な幻想、王の役職が疑似、擬制的な利害関係の切断、王の判断は上界からの選別であるとし、貴族が混線からの選択(ー決定)とfilterと単純化できれば、物事は簡単だったはずである。女性は天皇に就き、武則天は王朝をたて、女性スルタン、イングランドの女王が起きた。

 

確かに裁くなら男性である。『ヴェニスの商人』でポーシャは男装した。男性として裁くのは、内向きに自らのみにしたい。男性なら黙り行為で示さなくてはならない。男性なら例外処理の鬱陶しさを悟らねばならない。チャールズ・ディケンズの『大いなる遺産』に言うように、努めて感情を高ぶらせ無用の争いを生むのは女性である。好き嫌いを述べられるのは女性である。男性は自らの好き嫌いを持ち出してはならない。(外来の)民族の満州族清朝を建て、「清」で女性を表そうとした。皇帝は変らず男性である。ともあれ、近代国家は男性を国民/国民を男性と定めた。国同士の争いの最終的な解決手段を考えれば妥当である。傲慢は男性の罪であり、嫉妬は女性の罪である。共産主義者は、世界同時革命を唱え典型的な男性として描かれた。ヴィクトリア女王は雄々しい。男性は口を出すべきでない。女性は男性に従うべきである。男性は口を出したくない。

 

 

マタイによる福音書
(19:8)イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。

 

まず、結婚しない方がよい。冷静にならねばならない。結婚はしなくてよい。結婚の義務はない。周囲は結婚を強制してはならない。一人の夫には一人の妻である。結婚が慎重に成されれば、離婚の危険は減る。自分の妻を出し、他の妻をめとることは正しくない。三回呪文を唱える、役所に書類を届ける、という手続きも同様に正しくない。義務ではない結婚は妻の不品行が過ぎたときに解消される。ムハンマドは、trinity三位一体を伝えるキリスト教徒を非難した。彼が三位一体を誤解したのは明らかである。『コーラン』のアラビア語以外の言語への翻訳不(可)能は有名である。『コーラン』には、唯一神への「99の美名」があり、それぞれが神の?属性を(象徴から)表せるという。ペルシア神秘主義には、hânaハーナ(居酒屋)という表現がある。

 

ムハンマドが世故に長け、他人の心をよく理解した方だったのは疑いない。コーランには、ムハンマドの直面した事柄の影響が見られる。見ても構わないはずである。ムトア婚(一時婚)の解釈にはイスラム教の教派毎に争いがある。カトリックプロテスタントイスラムを問わず、時代と世俗の社会共同体に応じた解釈は必要となった。ムハンマドは終末までに共同体が73に分かれ、一つの共同体のみが選ばれる、と預言した。イエス・キリストは、終末までに多数の反キリストが現われるだろう、という。

 

明治期に、日本は法制度を移入した。第二次世界大戦前から、天皇の法的な性格には争いがあった。戦後、憲法においては天皇は象徴と位置付けられる。イスラム教では『コーラン』の卓越性を文学的な非再現性と絡めて主張する慣わしである。「非再現性は再現不可(能)性ではない」、という主張と思われる。再現不(可)能性であるなら、そのような主張は無用である。清廉で勇猛な王に関する文献は多い。我々は抽象的な思考に親しんでいる。

 

在りし日の人々は、まず明確に結末を定め、人々の行為をその思考と選好を含め辻褄を合わせて描くことを正当と見做した。現代の物書き、ジャーナリストは似ていると言えそうな行為をせざるを得ない。口調を整え、発言を選別するのは当然である。物を書くという行為(ー環境)が、書いた主体の立場を明らかにしつつ、修辞を許しているという社会は有りえた。虚偽意識の蔓延した現代では、修辞に疚しさを感じる事は当然である。「わたしにはこの事柄について偏向がある」、「わたしにはこの事柄について偏向がない」、はどちらも無駄である。マルクス唯物史観は歴史家の歴史認識、歴史叙述に影響を与えた、とも言える。歴史家の歴史(家)批判がより根本的なものとなる。ヘロドトスとトゥキディディス、音読の優位な世界では提起され難い。真の(/に)絶えない叙述された歴史、叙述可能な歴史、の論争が始まる。ヤーコブ・ブルクハルト、テオドール・モムゼンマルクスと同時代の十九世紀の歴史家への影響を限られるだろう。

 

成文法は本質的にcommon sayingことわざと大差ない。然もなければ、特定の言語への排他的地位、通訳(ー翻訳の)可能性の問題となる。ことわざ相互の「矛盾」という考え方は必要ない。contradictionは、言動と既に確定した事実と行為の不一致である。antinomy二律背反、law of excluded middle排中律は認められない。ことわざの本質は思考の節約である。本質でない何かがあるのはnatural当然である。既に決定したところから一見しかしないから、成立しない様に見える。我々がprocess過程を組み立てつつ、推論しないためである。推論の結果はcompact圧縮ーnominalization名詞化する。新たな名詞は前提(条件)を含め、推論の過程を包含する。いずれにせよ、イギリスとアメリカは判例法をとった。もっとも、これはexample実例とexception例外に関わる思考の選好である。問題はdeduction(s)推論の連鎖である。

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