マタイによる福音書 (6:19)あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押し入って盗み出すような地上に宝をたくわえてはならない。

マタイによる福音書
(13:11)それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬(たとえ)でお話になるのですか」。

 

 prerequisite要素/与件と、element元を使い分けねばならない。わたしは空集合を否定しない。複製可能の問題である。特定の対象の帰属を争う場合に、「同一な別の一つの特定の対象」とか、「同一な別のわたし」とか主張されては適わない。両目を開け、目蓋の上から眼球を押すと平行移動した世界が見える。another world来世/別世界がこの様な意味とは考えない。片目を閉じ、片目を開け、開いた側の眼球を目蓋の上から押せば、世界が歪むだけである。

 

 paradoxパラドックス/逆説は、言語の構造から来る言葉の適用の過誤である。言語はparadigm枠組みを持ち、世界を複製する。非ユークリッド幾何ではparallel lines平行線は交わる。イエス・キリストはparable譬で語られた。イスカリオテのユダイエス・キリストをparadounai裏切った/引き渡した。

 

 アルベルト・アインシュタインは、 ドイツ人でユダヤ人でアメリカ人だった。アルベルト・アインシュタインは『特殊相対性理論』に続き、『一般相対性理論』を発表した。理論の内容には立ち入らない。物理学の還元に従えば、正当/妥当だが、relative相対、special特殊、general一般の併用は行儀がよくない。むしろ、人聞きが悪い。また、objectization客体化(target対象'化')に関わる「性」という表現には問題がある。ニュートン以来の物理学には掛かる傾向はあった。 principl理 は、「自動機械の下書/下書きの自動機械」を描かせる。最も単純なhypothesis仮説は、「対象が存在する」である。また、「対象が存在し、かつ、存在しない」は、仮説ではないが、theory理論である。

 

 インタヴューの返答としては妥当である。おそらくインタヴュアーは、アルベルト・アインシュタインの著作を読みたくないし、二度三度読み返しもしない。聖書の批判者が読み方を習わず、一回読み、批判を試みるのと同様である。忙しい人間は、概してその様に行う。コーランを否定するためにアラビア語を習う者は絶無である。

 

 「神はサイコロを振らない」は、多くの解釈を孕んでいる。初めに彼は「宇宙は定常状態に在る」と考え、その後「そうとも限らないな」と考えた。ある者がサイコロの目を操ることは可能である。これは明らかに比喩の解釈として妥当でない。神は独立し「サイコロ」は「世界」を表している、とした場合には解釈に曖昧さが残る。この場合(ⅰ)サイコロは力学系に従う、(ⅱ)サイコロは力学系を含む(ⅲ)(ⅰ)と(ⅱ)の併用、となる。彼は、おそらく(ⅲ)の意味で述べた。(ⅲ)でも神の前に「力学系」が存在した、とはならない。人間は純粋に「物の(他の)存在の様態」をimagine想像できない。(ⅱ)は解釈は一通りだが、比喩はコインが適切である。(ⅰ)の場合の比喩は競馬が適切である。

 


マタイによる福音書
(6:19)あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押し入って盗み出すような地上に宝をたくわえてはならない。
(6:24)だれもふたりに主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方にに親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

 

 順序。
 「様々な限界の歴史を書くことができるだろう」とミシェル・フーコーは述べ、フェルナン・ブローデルは『文明の文法』でそれを引用し、わたしはフェルナン・ブローデルが引用した事実についてここで言及する。文献資料を漁るが、孫引きを知らない者はどのように受け取るのか。汎神論者の神の全一/?斉一、更に自然の斉一性を述べる主張には、値がない。むしろ(ⅰ)汎神論者が汎神論に価値を見付け与える(ⅱ)汎神論者の友人が汎神論に価値を見つけ与える(ⅲ)汎神論者の友人が汎神論者に価値を見つけ与える、というのが妥当である。entity存在の感覚のtarget対象となるmaterial物の総称、ないし、表象された感覚器官(=感覚)を含む物の総称が、nature自然だからである。科学者の分析対象としてのクオリアには値がない。

 

 パラドックスが生じるのは言語の構造の問題である。「ビールやワインはアルコール(語源:アラビア語)である」。表現は許されている。初期の蒸留装置はビールやワインから「alcoholアルコール」をextract抽出したことだろう。近代の科学者はエーテルを「etherエーテル」と名づけた。「organic有機的」という表現は、「生物(自然)が有機的である」という表現を許す。チャイティン超越数に関連させた神の不在の証明は値がない。

 

 何者であれ、自らを所有している、らしい。「organic有機的」という表現に価値が与えられるのは、人工物や社会制度、さらに、表象された集合としての(自然に属する物の象徴としての)記号を扱う場合である。経済は有機的である。ある経済制度の導入は、その制度が対象としないものにも波及する。二次卸、更に、三次卸の否定は、結果として、中小企業から成る経済を否定する。経済は社会生活の一部である。経済が社会生活で排他的に優先されないならば、縁故採用は当然である。人体は有機的であり、関節は有機的である。しかし、人体が細胞や原子の連続として成っていることとは異なる。むしろ、細胞を/が「細胞」としたり、任意に命名できること、section節に関係する。共有結合、イオン結合を/が有機的と表現しても構わない。しかし、紛らわしい。discrete離散とseparation分離は全く異なる

 

 世間知らずは、自らの尺度を普遍化し、contradict矛盾という言葉を濫用する。食べ物は有機物か、無機物か。「cash現金はcashキャッシュか、flowフローか」。situation状況が設定されていない。キャッシュ、または、フローである。「貨幣はストックだろうか、フローだろうか」 状況が設定されていない。キャッシュ、または、フローである。預金口座は開いているか、閉じているか。このテレビはデジタルか、アナログか。映像はデジタルか、アナログか。表現は、両方必要である。数は離散か連続か。普遍は実在か唯名か。life人生/生活に意味はあるか。「神と富とに兼ね仕えることはできない」。珍しくもないが、二つ同じ表現がある。可能だと考える者は間違っている。

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