マタイによる福音書 (6:19)あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押し入って盗み出すような地上に宝をたくわえてはならない。

マタイによる福音書
(13:11)それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬(たとえ)でお話になるのですか」。

 

 およそ世にある見世物の類いの中で、「メルツェルの将棋差し」ほど、世間の耳目を集めたものはあるまい。それが実演されたところではどこでも、すべて物を考える人の強い好奇心の的となった。しかもメルツェルの将棋差しのmodus operandiからくりは、いまだに解明されぬままとなっている。この今日の話題について書いたもので、決定的と言えるものは一つもない。いわば機械の天才ともいうべき人たち、或いは一般に聡明と分別で鳴っている人たちが、この自動人形は本物の機械であり、その動きに人間の手は全然加わっていない、したがってこれこそうたがいもなく人類の発明の中で、もっとも驚嘆に値いするものだ、などと軽率にも言明している。多分その通りだろう。ただし彼らの仮説が正しいと仮定しての話である。機会であるという仮説を認めるなら、古今を通じてこれに比肩しうる機械があるかなどと考えること自体、愚の骨頂と申すべきである。 『ポオ小説全集1』「メルツェルの将棋差し」E・A・ポオ 小林秀雄大岡昇平訳 東京創元社 2007年 237頁 

 

幾何(いくばく)である。ユークリッドの『幾何原本』は(希)'stoikheia',(英)'Elements'と訳される。prerequisite要素/与件と、element元を使い分けねばならない。量、複製の可能(/可能な複製)が関わる。「同一な別の一つの特定の対象」「同一な別のわたし」という主張は許されない。犯人はドッペルゲンガーである。両目を開け、目蓋の上から眼球を押すと平行移動した世界が見える。得られている別世界のimage想像(ーphantasia幻想)とはこのような何かである。片目を閉じ、片目を開け、開いた側の眼球を目蓋の上から押せば、世界が歪むだけである。両目を閉じたら何も見えない。

 

生じた/生じているparadoxパラドックス/逆説は、言葉の過ぎた使用である。言葉の過ぎた使用はパラドックスを生じさせる。言葉の過ぎた使用がパラドックスを生じさせるとは限らない。亀は現に此方に居り、アキレスは彼方の舞台の上に現れる。非ユークリッド幾何において、平行線は交わる。イエス・キリストはparable譬で語られた。イスカリオテのユダイエス・キリストをparadounai裏切る/引き渡す。

 

アルベルト・アインシュタインのドイツ人、ユダヤ人、アメリカ人の話は有名である。しかし、アルベルト・アインシュタインは何人なのか。可能な回答を定めねばならない。アルベルト・アインシュタインは『特殊相対性理論』に続き、『一般相対性理論』を発表した。valid(正当に妥当)とは、何処からの判断なのかを考えねばならない。模様の綺麗な縫物は女性の仕事である。principl理は自動機械の素描(/素描としての自動機械)を描かせる。普く通ずるhypothesis仮説は「対象が存在する」である。また、「対象が存在する、または、存在しない」は仮説ではない。theory理論である。

  

神はサイコロを振らない」は多様な理解を孕んでいる。インタヴューの返答としては妥当である。おそらく、インタヴュアーは、アルベルト・アインシュタインの著作にさして興味がなく、二度三度読み返しはしないだろう。人々は忙しければそのように行う。コーランを否定するためにアラビア語を習う者は絶無である。

 

始めに、アインシュタインは「宇宙は定常状態に在る」と考えた。ある者がサイコロの目を操ることは可能である。これは明らかに比喩の解釈として妥当でない。神は独立し「サイコロ」は「世界」を表している、とした場合には解釈の結果は漠然としている。この場合(ⅰ)サイコロは力学系に従う、(ⅱ)サイコロは力学系を含む(ⅲ)(ⅰ)と(ⅱ)の併用、となる。合オンシュタインは、おそらく(ⅲ)の意味で述べた。(ⅲ)としても、神の前に「力学系」が存在した、とはならない。人間には純粋に「物の他の存在の様態」を想像できない。(ⅱ)は解釈は一通りだが、比喩はコイントスが適切である。(ⅰ)の場合の比喩は精々競馬である。

 

 


マタイによる福音書
(6:19)あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押し入って盗み出すような地上に宝をたくわえてはならない。
(6:24)だれもふたりに主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方にに親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

  
「様々な限界の歴史を書くことができるだろう」とミシェル・フーコーは述べ、フェルナン・ブローデルは『文明の文法』でミシェル・フーコーの言葉を引用し、フェルナン・ブローデルが引用した事実について言及する、わたしは。孫引きの回避は作法である。汎神論者の神の斉一、更に自然の斉一性を述べる主張には、値が置けない。むしろ(ⅰ)徒党を組む汎神論者が、汎神論にvalue(ーestimate)価値を見付け与える(ⅱ)汎神論から離れたところで、汎神論者の同朋が汎神論に価値を見つけ与える(ⅲ)汎神論者の友人が汎神論者に価値を見つけ与える、というのが妥当である。entity存在の感覚のtarget対象となる物の総称、ないし、表象された感覚器官(=感覚)を含む物の総称が、nature自然だからである。科学者の分析対象としてのクオリアには値が置けない。

 

パラドックスが生じるのは言語の構造の問題である。「ビールやワインはアルコール(語源:アラビア語)である」。表現は許されている。初期の蒸留装置はビールやワインから「alcoholアルコール」をextract抽出したことだろう。近代の科学者はエーテルを「etherエーテル」と名づけた。「organic有機的」という表現は、「生物(自然)が有機的である」という表現を許す。

 

自らを所有している、らしい、美徳、猿、色彩が。「有機的」という表現に価値が与えられるのは、人工物や社会制度、更に、be represetated表象された集合としての(自然に属する物の象徴としての)記号を用いる場合である。経済は有機的である。ある経済制度の導入は、その制度が対象としないものにも波及する。消費者の意識の到来について、二次卸、三次卸の否定は象徴的だった。同時に、手続きに正当性が与えられていた。

 

経済は社会生活の一部である。経済が社会生活で排他的に優先されないならば、縁故採用は当然である。人体は有機的であり、関節は有機的である。しかし、人体が細胞や原子の連続として成っていることとは異なる。むしろ、細胞を(/が)「細胞」としたり、任意に命名できること、section節に関係する。命名の階層では、「共有結合」「イオン結合」を(/が)有機的と表現してもわない。しかし、紛らわしい。distinction区別とseparation分離は全く異なる。違いは全きところに生じる。

 

世間知らずは、自らの尺度を普遍化して「矛盾」という言葉を濫用する。楚の商人である、口上とあかしを準備して売り逃げねばならない。食べ物は有機物か、無機物か。「cash現金はcashキャッシュか、flowフローか」。situation状況がbe not configured設定されていない。キャッシュまたはフローである。「貨幣はストックだろうか、フローだろうか」。預金口座は開いているか閉じているか。このテレビはデジタルかアナログか。映像はデジタルかアナログか。自らを同一平面に置かなくてはならない場合がある。数は離散か連続か。普遍は実在か唯名か。life人生/生活に意味はあるか。「神と富とに兼ね仕えることはできない」。f:id:cunsong9403:20180730175606j:plain