マタイによる福音書 (12:40)すなわち、ヨナが三日三晩、大魚が腹の中にいたように人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。

マタイによる福音書

1240)すなわち、ヨナが三日三晩、大魚が腹の中にいたように人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。

164)邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかにはなんのしるしも与えられないであろう。そしてイエスは彼らを後に残して立ち去られた。

 

 一月一日は元日である。この日を祝う文化は多い。キリスト教系の諸宗教では、1225日にキリストの生誕を祝う慣わしである。おそらく、イエス・キリストの誕生した日は1225日ではない。未開人が、このキリスト教1225日の祭日から導く推論は、「イエス・キリストは癲癇だ」「あらゆる宗教は妄想である」と奇怪である。イエス・キリストの再臨ではなく、今後イエス・キリストが、約二千年前のガリラヤに誕生する日は二度と来ない。既に誕生したわたしとあなたは、復活はともかく、今後、誕生する日は来ない。

 

 キリスト教は土着の信仰を利用する。歴史あるどの宗教にも当て嵌まる。イスラム教は農耕儀礼を捨てない。フランク人、ゲルマン人の多くは野蛮だった。特定の土地への集住の基礎的が未整備だった。少なくとも12世紀までは、各地の部族、領邦君主が念頭に在り、「ドイツ帝国」の理念は表れなかった。もっとも、ローマ教会の支配圏の端れに位置する、といった意識は持ち得ただろう。ドイツ地域におけるローマ教会、プロテスタント、帝国ー皇帝、領邦君主の争いは省く。諸々の利害対立で入り乱れて争った。現在においても各領邦の独立性は政治体制に反映されている。13世紀にはモンゴルの欧州侵攻が始まる。同時代のブリテン島、ロシア、日本列島、アメリカ大陸には、野蛮人が暮らした。

 

 暴行、強姦、盗みー隠匿への忌避は、野蛮人の方が強いだろう。中世カトリックの諸王、中世イスラム教君主は、未開人だった。聖職者は、生来、人々と同じ肉欲を持つとするべきだろう。躊躇いの程度は様々である。また、聖職者が業務を果たすには、土地の支配者の協力が必要となる。土地の支配者の血縁が適正を問わず、聖職者となるのは避け難い。

 

 人々は属する社会と生活の中で祝う。小麦、大麦など主要作物の植え付けや収穫の時期、家畜の肥える時期、ニシンの獲れる時期などは決まっている。異教の風習は除かねばならない。人々は祭りで騒ぐ。人々は祭りで騒ぐと、辛い労働の憂さ晴らしになる、と主張する。娯楽は少なく労働は激しい。聖職者たちは騒ぐ人間に騒いではならない、と主張することは控え、譲歩し、代案を与える。少なくとも、sythetic総合的な判断を下す場面では、教会は寛容である。

 

 人々は分かりやすい「material物」が好きである。日本に住む教師は、棗椰子より蜜柑を、例にして子供に計算を教える。unit単位、identity単位、constant定などの抽象から教える者はいない。人間の指は10本だが、人間は指で10までしか数えたがらない。

 

 ヒジュラ暦イスラム暦)が唱えられたのは、ユリウス暦622年である。1923年には正教会では修正ユリウス暦を用いるようになった。フランス革命後、革命政府は共和暦(フランス革命暦)を用いようとした。1582年、ローマ教会は、ユリウス暦を廃しグレゴリオ暦を用いるようになった。暦法を変える際、人々は決まって抵抗した。1800年代の時計は一日に数分ずれる物も多く、使用者に頻繁に修正を求めた。消費者は原子時計を利用する。

  

マタイによる福音書

1821)そのときペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。

1822)わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい

 

 未開人は復讐を好む。彼らには復讐すべき者が復讐することが、自分たちと同等の存在であることを示すように、むしろ、復讐する者であることを、自分と同等の「material物」であることの証拠と見る・である証拠の様に映じる。血の復讐、イタリアのヴェンデッタは未開である。パウロは報復は神に任せればよいと述べた。実際、傲慢な見栄は論外だが、諸々難しいのは確かである。イギリス人は眠るとき、服を脱ぐという。信仰は、?dress/?fashion装いではない。ルターは信仰が衣装であるとは、認めないだろう。きっと、彼の苦難に満ちたイエス・キリストが、華美な衣服を身に纏うことは求めた。

 

 (我が国における)general一般的な科学哲学者、倫理学者、心理学者の腐敗は、special特殊的な聖職者の腐敗と比較し得る。これは我々の共通の理解である。indivisuals個別については、手間なので省く。特異性を有する個体について述べるのは虚しい。科学は批判的思考にdepend on/rely on依存して成り立つ(とされている、誰かから/としている、誰かが)。誰かが、批判的思考をしている。(ⅰ)科学者の全てが批判的思考を担う(ⅱ)科学者の一部が科学者全てへの批判的思考を担う(ⅲ)科学者ではない者が批判的思考を担う。批判的思考は、慣習として曖昧さを残すことになっている。わたしは「critical thinking批判的思考」を説明しない。

 

 「進化論は妄想である」は、「進化論は平和だ」「進化論は社会に調和する」「進化論は調和を社会に与える」「調和は進化論により社会に与えられる」と同様に卑怯である。進化論が仮説であり、それに様々な解釈があるのは確かである。「ダーウィンの進化論を前提にして話す」、と議論の主導者が述べたのに、「ダーウィンの進化論には疑いがある」と反論するのは行儀がよくない。議論の主導者は前提への批判を排除できる。「ダーウィンの進化論を前提にして話す」と、議論の主導者は述べたからである。

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