マタイによる福音書 (10:24)弟子はその師以上の者ではなく、僕はその主人以上の者ではない。

マタイによる福音書

2535)あなたがたはわたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿をかし、

2536)裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

 

人はテロのニュースを見ながら食事を摂る。猫を可愛いがり肉を食う。規則を増やしたスポーツを疑問なく楽しむ。人は記録を追うのに疑問を持たない。雑多なギネス記録によく表れる。人は人に褒められ思い上がる。わたしは情の移ったとき動物を食う、という倒錯した嗜好を理解する。もっとも、ヘロドトスが伝えるようにある部族が親の弔いにその肉を食う、という行為と心情を受け入れる。「熱狂的」と言われるベジタリアンは、食料品店の精肉コーナーで卒倒しない。突然に、従業員に対して罵声を浴びせさる事さえしない。現代の情熱はその程度である。

 

現代でも、顔のついたままの豚の丸焼きはご馳走と理解されうる。死刑が執行されても、死刑を下した善良な裁判官は遡及し、もしくは連鎖により自殺しない。日本では、有権者は「我々」と呼びうる集団は単一の民族だと理解される、と考えてよいだろう。他の宗教法を参照する要請は生じない。ニュースや新聞で世界の悲惨を知り眺めることは、人間の道徳意識を示さない。テレビのスイッチを切り替えて、目に映す対象を選択するようになったことは、確かに消費者の意識を創った。人間は同時に二つのところに存在せず、人間は同時に二つのことを考えない。

 

中世に「infinite無限/不定」「永遠」は濫用された。人間は相手が理解できそうな/自分が理解できていると思い込んだ/自分が理解しなくても、慣用から具合のよさそうな、最上と思った表現で賛辞し侮蔑する。人間は、空間、時間に属していない物を見ることはない。スコラ哲学者は「永遠」「永世」「時間」を区別した。区別して止まった。永世は天使に属する。視覚的な諸対象は永続する。聴覚的な諸対象は永続する。永遠は神に属している。永遠と永世は排他的ではない。絵画の消失点は発明されたのか。

 

univesal普遍(普く+遍く」「Catholic普公(普く公の)」「Catholic公同の(公に同じ)」となる。漢字は必然に観念的になる。陽明学の理一原論と、朱子学理気二元論の枠組みがあった。現代においては、有理数無理数、理学の用例に従うのが妥当だろう。明治時代において、漢文の素養ある文人たちは、「public公」と「private私」などの観念を用いて翻訳に充てるには、立ち止まり考えなくてはならなかった。

 

ラテン語は、更にアラビア語は体系化により無意識を留め、象徴主義に入れ込む。読書は慣れ、訓練を必要とする行為である。人間は、四百ページに文字ばかりを詰めた歴史書や、プログラミング言語の解説書を何ら準備をせずには読めない。人は黙読に慣れた。歴史の大部分で本を読むことは音読と同義だった。

 

 

マタイによる福音書

1024)弟子はその師以上の者ではなく、僕はその主人以上の者ではない。

1025)弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。

 

GKチェスタトンは殺人の物語を数多く著した。人間は皆、アベルでありカインである。創世期におけるノアと洪水より前の話であり、カインの子孫は絶えた例しがない。アベルの末裔を名乗る者は無い。純朴な亭主の妻はカインとなり純朴な農夫はカインとなる。カインは農夫だった。「(社会一般的に)わたしはよりカイン(の立場)に近いだろう」という自己投影、心掛けは有りうる。もっとも、わたしはアベルに自己投影する者を善い隣人と思わない。

 

「成り上がり者はプライドを持たない」。上記のような表現は人々を不愉快にする。(ⅰ)人権、原則としての平等(ⅱ)封建制への拒絶感(ⅲ)栄達を閉じるから(ⅳ)記憶とのanaphora照応(ⅴ)同朋のための義憤(ⅵ)直截に過ぎるなど、様々な重複し得り、相互に影響し合う理由が考えられる。

 

transparency透明性の追求は、隠れている緊張関係を顕在化させて十全に機能させたいという欲望としてなら理解できる。つまり、糸玉を解きほぐす地道な作業である。systems体制へのcriticism批判は、表現形式への批判を含まねばならない。体制は受けた問いを屈折し、更に問いを創る。際限なく回答を示し続ける。歴史を通じて、特定の階級による書き言葉の独占が為された。ギー・ドゥボールは、社会階級、一社会の各主体の分離を批判し、専門家と社会組織から分業を否定した。また、社会に置いて実践するはずの、成員の非主体性を人権と関連づけ批判する。あらゆる時代において、階級はその階級の言語をmolded形づくった(ーformed形成した)。言語システム外からの批判を処理しないことは、未開さや暴力の独占に関らず、封建制の時代において同様だった。

 

瞑想する隠者は神秘的な合一を果たすことを目的とするかもしれない。巡礼者の目的は、巡礼地に着くことだろう。歩行は手段である。歩行者は「歩行している者」である。歩行者の目的は歩行である、というのは疑問がある。特定の人を歩行者と設定し、彼に問えば、答えを返してもらえるだろう。科学の目的は科学の拡張であってはならない。帝政ローマ、はたまた大英帝国は、結果として拡張した。科学のextension拡張に目的は、言い換えれば、「利用し易い情報を増加させることに目的は無い」というのは(adequate妥当ー)proper正当である。「Aは、A自体が目的である」という表現は不要である。言い換えれば、(request要求ー)factor要因(は/)がない。

 

富裕な者は盗みを考えない。罪な思考に悩まない。既に盗んでいるためである。進行している行為を目的とするのは、自らproceed発出する何かを目的としている。自らの欲望を批判なく肯定している。modulo法(ラテン語modulusの奪格)の翻訳は、諸子百家の法家と儒家の争いを思わせる。この文脈の「法」は、Dharumaの法であり、諸法無我かもしれない。(希)nomos、(羅)lexではないだろう。裁判ではないのだから、contradictionと責めることはない。「antinomy二律背反ではないか」と問えば十分である。対話の準備のために語り、対話の道具立てが済み、対話に臨めば事案は崩れている、というのが仏教である。助詞と前置詞、接続詞しか残らない。平和である。小乗と大乗の(区別ー)分離、仏教建築、僧兵が現象化するという逸脱は生じた。

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