紹介(8) 『祖国のために死ぬこと』 E・H・カントロヴィッチ 

 グレゴリウス七世の時代以来ずっと、ある危険な観念が、教皇の政治理論に影響を与えていた。それは、教会と帝国を太陽と月で象徴させる理念である。大きさの違う二つの天体がともに天にあるということは、それ自体、王権と教権との関係を示唆するものであったが、この隠喩はさらに、月が太陽の反射光により輝くことから、月としての帝国が、太陽としての教皇より劣っていることを示すと考えられた。……ダンテに従えば、教皇と皇帝は、一方が大きな光を反射し、他方が小さな光を反射するといったものではなく、それぞれが異なる任務をもった、同等で同格の権力である。それらは、ともに世界を照らしながら、「聖なる神が人間に定めた」二つの目標―地上の至福と天上の至福―へと人類を導く「二つの太陽」であった。
……第二の太陽(アンヘリオン)の出現は、リヴィウスが語っているように、古代ローマ人にとり悪しき前兆であった。 『祖国のために死ぬこと』 E・H・カントロヴィッチ 甚野尚志訳 みすず書房 1993年 94頁

 

マタイによる福音書

(10:24)弟子はその師以上の者ではなく、僕はその主人以上の者ではない。
(10:25)弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるものならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう
(10:26)だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れこないものはなく、隠れているもので知られてこないものはない。

 

像は「わたし」の見た物である。phantasia幻想は主語に集団を置ける。彼が見たナイフ、虎、小人は、obscure不明に留まる。食卓ナイフで人を刺し、虎の斑が波にうねるのだろう。あらゆる都に小人は住む。映画『フリークス』の世界を忘れられた。人は生活の普遍性の錯覚に生きている。三本足と帚、束ねたメドハギ、三本脚の鼎で煮た犠牲の肉は、理にかなう。「賓客を迎えるには、口に含んだ食い物を吐きだす」。中国は偉大である。屈葬、埋めた死骸を掘り返し、組み換え、再び埋めて隠すという作業は、(ⅰ)甦りを防ぐ、(ⅱ)より善く蘇る、(ⅲ)散らかした骨を整えた、のいずれを表すのかは不明である。ほんやくこんにゃくを食べるドラえもんを見て、「ドラえもん以外は食べてはならない。状況により例外は生じる」と、わたしは考えた。

 

外側と内側。優劣。懐と心。魂と記憶。単式簿記複式簿記

開いて、閉じる。開いて、開いたまま、閉じず、閉じる。 

開いて、かつ。閉じている。

開かれて閉じており、一時的に開き、あるところに向けて一定まで常に開かれている。

(拡張しつつ)開きかつ閉じている内で、開きかつ閉じており、(認可に基づく可能から)開いて広げる(/広がりを表出する)。

 

あなたが銀行にお金を預けると、帳簿には額面が記入され、あなたはお金をいつでも引き出せる。銀行はあなたのお金を減らすことなく、他の人にお金を貸し出す。又貸しは通俗的な説明である。ローマではない。「利息」を禁止する宗教は少なくない。蓄財の手段(ー過程)は様々である。ところで、モラトリアムに債務を増やしてよいだろうか。

 

人々は自らの尺度を普遍化する。結果として、「(視覚的にまたは想像により)神を見る」「イエス社会主義者である」「トマス・アクィナスが利息と私有財産を肯定した」のようなweired面妖な戯言があらわれる。当時キリスト教社会とイスラムとの対立という視点から、「キリスト教徒の富」の解釈を十全に補強する必要が生じていただろう(躯体と効率、逸失利益?)。もっとも、西洋の富の流出はなお続いていた。

 

 この関連で重要なことは、中世の帝国が「神聖なる帝国(サクルム・インペリウム)」と呼ばれ始めたのは、バルバロッサの時代以降であり、それ以前にはそう呼ばれていなかったということである。それゆえ中世史家ならだれでも、シャルルマーニュが八〇〇年に「神聖ローマ帝国」の皇帝として戴冠したという、教科書の誤った文章を読めば、なんとも言えない気持ちになるだろう。それはまさに、アレクサンドロスが大砲を使ったとか、カエサルが落下傘兵を用いたとかいうのと同じ時代錯誤的な言説なのである。ローマ法の述語において、「神聖な(サケル)」という言葉は、まさに「帝国の」という意味をもっていた。ただそれは、中世のラテン語では、よりキリスト教的で教会的な意味を含むものとなったであろうが、いずれにせよ、バルバロッサは「神聖な」という形容詞をローマ法から借用して、彼の「帝国」につけたのであった。したがって、800年のできごとをあらわすために、「神聖な」という形容詞を無批判に使うことは、シャルルマーニュの時代と新たな法学を背景としたバルバロッサの時代とがそれぞれ持つ特殊な雰囲気を、台無しにしてしまうことになるのである。 『祖国のために死ぬこと』 E・H・カントロヴィッチ 甚野尚志訳 みすず書房 1993年 82頁

  

……そしてペトラルカがここで、彼の友人である王以外の人間によっては裁かれないといったように、ダンテもまた、すべての人間をさばく主権者の力を自分がもつと考えていたのである。ちなみに、「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」(『コリント前書』二章十五節)というパウロの定めは、教皇によって「教皇はすべてを裁く」という意味で独占的に解釈され、のちに、主権保持者の大権を導くことになるが、ここではそれが、その文字どおりの意味で理解されたと思えばよい。すなわち、霊的な人間一般、聖霊に満たされた真の「霊の人(プネウマティコス)」は、聖霊をはらむことで、それぞれが主権をもつといえるので、だれによっても裁かれえないと。じっさい聖霊(プネウマ)は世俗化され、人の裁きを超えた「才能」によっておきかえられた。しかしそこでもなお、天上からの霊感が存在する。そして主権者に「職務によって」与えられた法的な大権が、「才能によって」君臨した真のルネサンス的支配者、そして芸術家や詩人に受け継がれていくのはよく知られた事実である。『祖国のために死ぬこと』 E・H・カントロヴィッチ 甚野尚志訳 みすず書房 1993年 132頁

 

 これまでしばしば言われてきたことであるが、中国の独特な栄光は、(法家の没落後)その全史を通じて、法が、きわめて明白な倫理原則と考えられた事柄に基づく慣習と密接不可分に結びついたままであったこと、そしてまた、実定法の制定が、その法典編纂とともに最低限に抑えられたという事実に存在するのである。『中国の科学と文明 第二巻 思想史 上』 ジョゼフ・ニーダム ――訳 思索社 1991年 245頁

 

言語は体系を具えつつ発展している(/発展した)。人は最低限に指示できる対象、つまり、「これ」と言いうる物の全てを必要十分に命名する。発展した全ての言語は世界を(包摂ー)複製する。複製の仕方が問題である。或る言語と他の言語との比較において、或る言語はautonomy自主性/自動性(ーself-reliance自立性)から、諸対象の分節を生めず、今の我々には、重ねた/重ねている何かとして示される。生じた分節は、自主性を以て任意とは表現できず、ある言語の限界を示す。autonomy自主性とarbitrariness任意性は全く異なる。所謂、nature自然、person人、human(s)人間(人類)は様々である。近代以降、「humans人類」は、「person個人」、「human人間」に対してretoroactive遡及的な概念として置かれた。

 

プラトン学派、および、ユークリッドは視覚は眼から出る光線により得ている、と考えた。影の象徴は古く、古代ギリシア古代ローマにおける資料は残る。魂の軽重、小人型の魂、魔法使いに掴まった魂の記録は多い。人間は「魂(的な何か)」を持たない、と判断した文化は絶無である。(「共有地の悲劇」?)東南アジアには、昼寝している間に出かける「魂(なる何か)」が存在した。未開な社会では、essense本質、cause理由(/由来(/要因))、action行為、working作用、factor原因(/要因)、power力の区別(ー分離)が明確でない。何らか(類型的な)発作について(種類の)魂(的な何か)を割り当てるという考えが起きうる。魚、蜂を捕まえようとすると逃げる。また、いくらか規則的に動いて見え、いくらか動きを予測しえたのは確かである。

 

言葉が多義的、あるいは今我々に、混然一体として見えることは、言葉が空虚であることを意味しない。堕胎を助ける魔女なら、魂の目方を量りそうである。フランス出身のドイツ詩人、アーデルベルト・フォン・シャミッソーは影を売ったペーター・シュレーミールを描いた。約二百年後にドイツの児童文学作家、ミヒャエル・エンデはより魅力的に、意識して作品に表現している。太陽は黄色、金色、白、橙、赤である。月の色は銀、白、青とも表現された。一般的には、古代ギリシア人は(カオスに対して)cosmosコスモスと讃え、好意的に受け止めた(’cosmetic’?)。

 

 二つの法の媒介者たる君主、神が人間たちに遣わした〈生ける法〉たる君主、神が人間たちに遣わした〈生ける法〉たる君主、〈法から解放されている〉(legibus solutus)と同時に〈法に拘束されている〉(legibus alligantus)君主といった諸観念は、明らかな理由によって、当時において少しも珍しいものではなかった。
 というのも、中世のあらゆる法哲学的思考は不可避的に次のような想定に基準を置いていたからである。すなわち、いわば超法的な自然法というものが存在し、この自然法は、あらゆる実定法から独立してそれ自体において自足的に存在するがゆえに、何らかの王国とか国家の存在には――事実、いかなる王国や国家の存在にも、依存していないという想定である。 『王の二つの身体 中世政治神学研究』エルンスト・H・カントローヴィチ 小林公訳 平凡社 1992年 152頁

 

グレゴリウス7世(1020~1085)

ハインリヒ4世(1050~1106)

フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)(1050~1106)

Sancta Ecclesia聖なる教会

Sacrum Imperium Romanum神聖ローマ帝国

Corpus mysticum Chiristiキリストの神秘体

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