紹介(10) 『燃えつきた地図』 安部公房 

もっとも、理想を言えば、観察時間はやはり夜のほうがいい。そして、最低、二時間はかけてみる必要がある。さらに、相手と空想の食事をともにして、上役になって命令したり、同僚になってぐちを聞いてやったり、部下になって小言を言われてみたり、相手が女ならば、一緒に寝てみるのもいいし、相手が男ならば、こちらが女になって付き合ってみることだ。しかし、「彼」については、まだそこまでの努力をしていなかった。怠慢だったというより、それこそ熱意を妨げる何かが、依頼人自身の側にあったのだから仕方がない。ぼくにとっては、消えた「彼」の行方よりも、依頼人の真意のほうが、はるかに目ざわりな、胡散臭いものだったのだ。現に今でも、この調査依頼自体が、「彼」の行方をさらに隠蔽するための、陽動作戦かもしれないという疑惑を完全には拭いきれずにいるのだから…… 『燃えつきた地図』 安部公房 新潮文庫 昭和55年 157頁

 

290 孝女のたたり
 漢のころ、東海郡に孝行な嫁があって、たいそうよく姑につかえていた。そこで姑は、
「嫁はずいぶん苦労してわたしを養ってくれるが、わたしはもう寄る年波だし、あと何年もない命を惜しんで、若い者にいつまでも迷惑をかけたところで、なんになるだろう」
と、首をくくってしまった。すると小姑が、
「嫁がうちの母を殺しました」
とお上へ訴えて出たので、役所では嫁を逮捕し、ひどい拷問にあわせた。孝行な嫁は拷問に耐えきれず、嘘の自供をして、罪状を認めてしまった。
……
「もしわたくしに罪があるのでしたら、どうぞお殺しください。そのときは血が下へ流れるでしょう。もし無実で殺されるのだったら、血は逆に流れるでしょう」
 そして刑が執行されると、血は緑色をしていて、竹竿をつたいながらのぼって行き、頂上まで着くと、また幟をつたってくだったという。『捜神記』 干宝 竹田晃平訳 平凡社 昭和39

 

一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の現われ、個々の商品はこの富の元素的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている。13頁
意識がその存在を規定するのではなくて、逆に人間の社会的存在がその意識を規定するのである。……このように全ての商品の交換価値の十全な定在をあらわす特殊な商品、または特殊な排他的な一商品としての交換価値―これが貨幣である。33頁
実際には、諸商品の交換過程は、もともと原生的な共同体の胎内で現れるものではなく、こういう共同体の尽きるところで、その境界で、それがほかの共同体と接触する数少ない地点で現れる。ここで交換取引が始まり、そして、そこから共同体の内部にはねかえり、これに解体的な作用を及ぼす。34頁 『マルクスエンゲルス全集13 経済学批判』 武藤一羊訳 大月書店 1964年

 

そこで、(ⅱ)かりに点という意味での部分によって知性認識するのであり、点は無限にあるとすれば、明らかにそれを最後まで行き尽くすということはけっしてないであろう。他方で、(ⅰ)大きさを持つという意味での部分であれば、同じものを数多くあるいは無限回も知性認識することになるだろう。しかし一度だけでも知性認識することができることは明白である。また、どの部分であってもそれが接触するだけで知性認識するに十分であるとするならば、なぜ知性は円環運動する必要があるのだろうか、いやさらに、そもそも一般的に大きさを持つ必要があるのだろうか。

 だが、もしも(2)知性認識するのには円環の全体で接触するのでなければならないとするならば、部分による接触とはどのような意味をもつというのか。
 さらに、(3)部分をもたないものによって部分に分かたれたものを知性認識したり、部分に分かたれたものを知性認識したり、部分に分かたれたものによって部分をもたないものを知性認識することは、いったいどのようにして可能だろうか。
 しかし、知性はこのような円環でなくてはならないはずである。なぜなら、知性の動きは認識活動であり、円環の動きは回転だからである。そこで、知性認識活動が回転であるとすれば、知性認識活動であるそのような回転が属す円環は知性であることになるだろう。
……
 またさらに、知性認識は動よりも一種の静止や停止に似ている。同じことが推論についても当てはまる。40頁

 しかしまた、同一のものは、それが分割されないものであり、また分割されない時間のうちにある限りにおいては、反対の動(運動変化)を同時に動くことは不可能である。実際、もし対象が甘ければ、特定の仕方で感覚や知性認識を動かすが、苦いものはそれとは反対の仕方でそれらを動かし、白いものはまたそれとは別の仕方で動かすのである。134頁

アリストテレス全集 7』 「魂について」 中畑正志、坂下浩司、木原志乃訳 岩波書店 2014年  

  

この御代(みよ)に、免寸河(とのきがわ)の西に一つの高樹ありき。
その樹の影、旦(あさ)日に當(あ)たれば、淡路島に逮(お)よび、
夕日に當(あ)たれば、高安山(たかやすやま)を越えき。 
故、この樹を切りて船を作りしに、甚(いと)捷(はや)く行く船なりき。
時にその船を號(なづ)けて枯野(からの)と謂ひき。 
故、この船をもちて旦夕(あさゆう)淡路島の寒泉(しみづ)を酌(く)みて、
大御水(おおみもの)献(たてまつり)りき。
この船、破(や)れ壊(こぼ)れて塩を焼き、その焼け遺(のこ)りし木を取りて琴に作りしに、
その音七里(ななさと)に響(とよ)みき。

 

世界中のどこでも、植物は緑色で、空は青い( * 碧血、Blue blood)。木製の三面六臂の偶像、愚者が連れ歩き、聖母の足元に伏せる犬が関わる。ケルトの女神は猟犬を供に連れていた。聖母は猟犬を必要としない( * Mater matuta)( * 『前日島』ウンベルト・エーコ)。古代エジプト人はスカラベと太陽と船、復活を結んで捉えた( * 保険協会職員:フランツ・カフカ)。外見からは多神教と類似の文化があることは否定できない。concrete number名数、先入観は捨てねばならない。異教の「三面」を「三位一体」に結びつけ、即時に「三位一体」の懐疑に移れば、愚かである。

 

ヨハネ黙示録
(4:6)御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
(4:7)第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。
(4:8)この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼の周りも内側も、目で満ちていた。そして昼も夜も絶え間なく、こう叫びつづけていた。
聖なるかな聖なるかな聖なるかな、全能者にして、主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。

 

「ねえ、その最後の写真……ちょっと、ひどすぎると思うなあ……撮る方も、撮る方だけど、撮られる方もちょっと神経がおかしいんじゃないですか?」
 ひどい、という表現はあまり当たっていない。露骨さから言えば、もっとむき出しなのが、いくらもあった。背景は黒一色、その黒の中に、女が両膝を開いて中腰になり、、体重を左の脚にかけて、体を深く前に折り、股の下をくぐらせた髪の毛を、尻の後ろで束ねて、腰に回した右手でつかんでいる。その姿勢は、不自然すぎて、なんの感興もそそらない。写真の中のことととはいえ、モデルの肉体的苦痛の持続に、生理的抵抗を感じさせられるだけのことだ。平板な白い腰の広がりだけが、ねじくれたモデルの手足とは関係なく、蟹の甲羅のように無表情だ。『燃えつきた地図』 安部公房 新潮文庫 昭和55年 234頁

 

19世紀末のアメリカにおいて、ホットドッグを普及させたのは、ドイツ系移民とされている。トルコの冷菓、ドゥンドゥルマの材料となるサレップには、澱粉およびグルコマンナンが含まれ、粘性(を/)に寄与(/貢献)している。精製ゴム製のコンドームの製造は1844年以降とされている、江戸幕府の解体以前には輸入された。華僑たちの先祖の多くは中国福建省の出身である。当地の泉州市にある洛陽橋は、橋脚に牡蠣殻を大量に付着させることで強度を高めた。

 

1944年、ホルヘ・ルイへ・ボルヘスは、著作『伝記集』を発表した。バベルの図書館は、六角形の閲覧室の積み重ねで成っている、とする。1841年、エドガー・アラン・ポーは、著作『メエルシュトレエムに呑まれて』を発表した。体積の大きいもの、球状のものは早く渦の中心に落下して行くのに対して、円柱状のものは飲み込まれるのに時間がかかる 、とする。中世後期、ルネサンスバロック、世界各地を舞台とした商業の発展の中で、ヨーロッパの象徴主義は衰微していく( * halo、tonsura)。

 

induction帰納(/逆推理)の嫌われるところには、ある主体の自らの依拠するところのあいまいな理解、行為の前提条件の不明析、overlapがある。言い換えれば、状況証拠から粗っぽく「trivial自明」を引き出している。おおよそ、overlapは、余計な前提を持込み、概念を遡及的に利用したためである( * lap over、filter)。

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