紹介(15) 『黄金伝説』 著:ヤコブス・デ・ウォラギネ i2

司教は、答えた。「とんだ失礼をいたしました。あの少年のたましいは、死んでしまいました。いまは盗賊や人殺しといっしょにむこうの山中に住み、一味の首領になっております」ヨハネは、これを聞くと、衣服を引き裂き、われとわが顔を打って、「あなたは、もはやあなたの兄弟のたましいのよき番人ではありません」と叫んだ。そして、すぐさま馬を用意させ、すこしも怖れることなく山に向けて馬を走らせた。少年はヨハネの姿を見ると、恥ずかしくてたまらず、馬にとびのって逃げた。ヨハネは自分の年も忘れて馬に拍車をかけ、うしろから呼びかけた。「いとしい息子よ、年老い、武器ももたぬ父からどうして逃げるのだ。怖れることはない。息子よ、わたしはお前のために神に弁明してやろう。そしてキリストがわたしたちのために死なれたように、よろこんでお前のために死んでやろう。逃げるでない。いとしい息子よ。引き返すのだ。天主がわたしをお前のところへつかわされたのだから」 『黄金伝説1』 ヤコブス・デ・ウォラギネ 前田敬作、今村孝訳 平凡社 2006年 156頁

 

 ヨハネによる福音書
(24:17)イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたは全てをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい
(24:18)よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし、年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人が、あなたに帯を結びつけ、行きたくないところへ連れて行くであろう

 

 ユダ氏族の象徴が獅子であり、どこに行ってもユダは獅子の子である。西方教会では、マタイは人、マルコは獅子、ルカは雄牛、ヨハネは鷲となっている。マタイが人、マルコが雄牛、ルカが鷲、ヨハネが獅子である。ジョンはジョンである。イングランドの国旗に限らず、全ての国旗の獅子の名はジョンだろう。イングランドでは、更に雄牛がジョンと名づけられた。迷宮たるブリテン島を徘徊するモノクルを付けたミノタウロスの群れである。敵に対する/対する敵への同義反復がジョンである。

 

 棒と剣はジョンに似合う。弾丸はジョンである。撃たれた弾丸は、銃身を軋ませる。穏当でないルソーはジョンである。学者のジョンは傑出し、ジョンの属する分野の連中にとって厄介な事を仕出かす。女教皇の名がヨハンナなのは論を待たない。怪物に銛を刺すのはジョンである。ジョンはベヒモスレヴィアタンの肉を食うに値する。

 

 輩は始末に負えない。加えて、「始末に負えない輩」である。ルターには、教会が怪物に見えていた。ホッブズは人の国の王(ー国家)を怪物と見る。ホッブズは、現に人の国の王を知っていた。王が国家をexpress表す(ーrealize現す)のか、国家が王を表す(ー現す)のか。アインシュタインには入れ子に怪物を見る。鏡に映る何かが怪物なのか、鏡に映らない彼が怪物なのか、鏡が怪物なのか。初期教会はカタコンベで祈った。教理の(distinction区別ー)transform変化(ー(separation分離ー)extension拡張)を批判し、墓に潜ろうと試みないのは不思議である。

 

 意の従わせ、操作の可能な何かが、自らである。自らの意に従わせ、操作の可能な何かが、彼である。服を着る、入れ歯をする、自転車に乗る、自らはまさに延長している。対等な他者との対話において、彼は着る服と自らを区別しない。全き気分の問題である。人間は予期しない危険に遭遇し、或いは自らへの付加(物)が十全に機能しない場合に、自らと/から自ら以外を分離する。(腕が切れた、あれはわたしではない)。立木に触れて抱く一つの世界、といった妄念は消える。身体の一部が離脱した場合、何らかの魔術(的効果)が生じる余地がある。爪、髪、排泄物、更に経血、精液、胎盤には、魔術、神秘(的効果)が認められた。彼は、何かが自らの意に従ったという記憶を持っている。特定の物は自らという何かに関わっている。我々はしばしば、下半身、胃袋、内臓、いずれも彼自らの意に従わない何かとして対象化する。

 

 歴代の教皇、西ヨーロッパの君主、天使を、比較のために対置したいという願望が生まれた。記号は、基体の性質による比較不能、主体の資格といった信仰に関わる事柄を、?客観的な比較にしてしまう。シーザーは神々に等しく、雄弁な人だった。おそらく、ギリシア、或いは共和政ローマの神々は、弁舌に長けていなければならないと感じられたに違いない。友達との冗談、愚痴が盛んなのは雄弁と言わない。

 

 ピロートークは難しいところである。シェヘラザードの寝物語と、王様の英勇譚では随分異なる。話すなら、隔たりを自覚せねばならない。「わたしはあなたのお母さんじゃありません」。水場の黒カビに演説するのは、よい趣味とは言い難い。ロペスピエールは最高理性の祭典を催し、ギロティーヌへ送られる。その後、異教に先祖帰りした様な理神論が発生する。無神論者、共産主義者という言葉が嫌悪感をかき立てた時代である。現代と大差ない。つまり、差は有る。差として有った何かは、崩す、隠す、固まる、融けるを繰り返した。

 

 アメリカにおいて軍事は、大統領権の拡張を要請した。内に外に表れている問題はcriticalである。臨界して融けている。場当たりに対応したと言える。拡張はまさに、有無を言わせないところで起きている。儀礼と神秘の余地のない手続きが生まれる。先例が有るか否かがpole極となり、手続きを飛び越えて進む。構成した後に形成されていく何かは、metamorphicである。起きた何かが、権利として漸時に包摂されていく。暫時ではない。猶予はない。我々は忙しい、とても。猶予とは時計の針である。漸時に包摂されてはたまらない。漸時に包摂しないための手続きを暫時に生むだろう。

 

 組織の中には固有の時間が流れている。三権は分立する。大統領は国民が選ぶ。国民は大統領を選ぶ。議会は罷免権を持つ。教会組織が定めその様に造り、近世絶対主義国家が模倣した帰属関係の明瞭さは消えるだろう。市場は全てを呑んで行く。「経済は社会制度を規定する」、「何と恥知らずな考えだろう」が平行に生じる。平行、位相、認知には、最低限の準備を要する。既に或る社会の全体性は失われつつある。全くに我々は忙しい。連節は次第次第にぐちゃぐちゃしていく。

 

 ローマは実に魅力的だった、対外的に。ローマはローマの外の人間を魅了した。結果として孤立した大英帝国とは異なる。全てを吸収し続けた中国とも大いに異なるだろう。「中国」は始めから常にgreatな中国である。国のために働く兵隊、生徒のための教師、顧客のための商人、わたしのためのわたし、要するに媒介(物)である。往時は素直に飯の種と表現した。目的の定め方、arbitrariness任意性、autonomy自立性、liablities借財、responsivility責任が混同される。みな、商人のような有様である。利他はprogram計画とproxy実践の関係で問題になる。予測しなければならない。実践はbe regulated規正される。概して、集団に属していると思うと、人は気が大きくなる。(日本では、)気は大きくなり得る。集団への所属は示威に繋がる。共和制ローマでは委任、代理、請負、雇用などを明晰に区別する要請があった。対外的な軍事力を背景にすることが可能なところで、全ては野放図である。上は下に覆いをかける。媒介に条約、雇用と冠すれば、関係は対等に引き上げられる。少なくとも、大英帝国までは明確に下と表現した。

 

列王記
(3:25 )王は言った。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」
(3:26 )すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もうひとりの女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言った。
(3:27 )そこで王は宣告を下して言った。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」
(3:28) イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。

 

 ブリテン島と言えば、烏ついばむ縊死死体である。日本の割腹の様な伝統芸である。お家芸である。隣家と接していなければこそ起きた。いずれにせよ、環境から形成されたantithese反である。言語を崩さねばならなかった。グレゴリウスは釣り針に掛けられ陰府に降り、父祖を開放する勝利者イエス・キリストを想像した。翻訳と共に、特定の言葉はtranslate遷移する。起源、慣用、(再)定義、は、process過程として統合しなくてはならない。慣用の絶対化は閉鎖的な環境における稚拙である。

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