紹介(17) 『捜神記』 干宝 

130 鶏の怪異
 漢の宣帝の黄竜元年(前四九年)未央宮の輅軨と呼ばれる厩舎のなかで、めんどりがおんどりに変わった。しかし、その鶏は、羽のようすが変っただけでときも告げないし、成長もしない。またけづめも生えなかった。
 元帝の初元元年(前四八年)宰相の書記官の家で、めんどりが雛を抱いているうちに、しだいにおんどりに変って来た。そして、とさかが生え、けづめを生じ、ときを告げるようになり、成長して行ったのであった。
……
「りっぱな人材が志を得ず、讒言を恐れているような世、時勢を知ってなげくような世、統治者が民衆を惑わして位にあるような世には、鶏に角を生じる異変が起こる」。『捜神記』 干宝 竹田晃平訳 平凡社 昭和39年 121頁

 

ルカによる福音書
(10:38)一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
(10:39)この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
(10:40)ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待させているのを、何ともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
(10:41)主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
(10:42)しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

 

眼前の仕事に熱中すれば気は紛れる。教師は生徒に教え、何か知っていると思い込む。子を持てば、未熟さに関らず親は親になる。十代半ばで婚約して嫁を娶る。社会に潜在する危険は減る。過ぎた愚か者は外へ旅に出て、商人、香具師、芸術家となる。危険を冒すのは個人で沢山である。

 

歳を重ね、華々しい諸々を忘れると気がつく。人は淋しくなり、落ち着きを得る。人は老いて変わらず不安である。文字と写真は、人間に不可避に学ばせる損失の経験を、錯覚により弱めてしまう。内省的な人は記憶を歪める。人が記憶を改変するのは確かである。確かだろうか、本当に。

 

男性なら悪を知るのは自らのみでよい、というかむしろ、妻や子供に極力悪を見せて感化したくないというヒロイックな感情に覚えがある。もっとも、妻が悪を知らず無垢であるというのは、夫の妄想である。逆に行けば、「妻の不貞を疑う夫」「不義の息子の疑う夫」の物語が生まれる(『冬の夜ばなし』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』?)。物語の類型は男の習性と、悪を真に表している(ナザレのヨゼフ?)。疑いは夫、妻、子への全き損失である。

 

「by faith alone」とは論外、(任意性を認められた主体としての)主張の放棄である。既に神の国に住んでいるような発想である。標語として作る価値はない。freedom of thought、free willと、liberal arbitrumでは随分違う。違いはextreme随分である(『S・カルマ氏の犯罪』?)。壁の向こうに幽霊は住まない(『ハムレットデンマーク王:クローディアス?)。むしろ、壁にはsubstance実体がない。囲繞地の壁である(methodical?)。

 

「人は乱数表に過ぎず、人生は見えない格子柄の右左を選ぶ作業に過ぎない」。達観している。枠を与えられ、右左は教えられた。選ぶ機会はあったと考えられる。彼は格子の都に居り、都の格子に立っている。

 

actualityは、「同朋には、自明な何か」、antithese反を取り、返しつつ、「敵が認めない何か」となる。本質は人数である。ヘレネスは徒党と輪廻転生を克服できない。ローマは徒党を否定し得た。hereditas相続(財産)とsuccsseio継承の区別(―分離)をしなくてはならない。

 

人間が、その生涯の内に移動する距離がごく限られた社会では、用いられる言語が現実になり得た。生活で支配的な言語と、内省に用いる言語の一致はcore核である。共同体内の主体は、相互に監視し合う。外面的な行為への要請は、常に人の内に留まり、効果を生み続ける。

 

アキレスと亀パラドックスは生じてくる。プラトンは善のイデアを語る。アリストテレスは「不動の動者」を記述する。内省のための言語に対しては、造語機能を含め、全幅の信頼を置くかざるを得ない。ソクラテスは言語への信頼を乱す。概して、人間は育った土地の言語を信頼している。

 

信仰は人数を越えねばならない。ユダヤキリスト教の伝統に異言がある。アラム語ヘブライ語アラビア語エスペラントに、特殊な地位を与える必要はない。ラテン語は死語である。異邦人に言葉は通じる。異邦人はイエス・キリストを知りえる。ある言語は、言語一般の下にある。人前での祈りは、人々から評価を受ける。

 

310 冶鳥
 越(浙江省)の山奥に、大きさは鳩ぐらいで色は黒く、冶鳥と呼ばれる鳥がいる。大木に穴をあけて巣を作るのだが、巣の大きさは五、六升入りの器ほどもあり、入口の直径は五、六寸、周囲は赤土と白土で上塗りしてあるが、二色の塗り分けは、矢の的のように見える。
 木こりはこの木が見えると、よけて通る。まっくらで鳥が見えない夜には、鳥の方でも人に見られないのを知っていて、
「ちゅっちゅっ、早くのぼって行け」
と鳴き立てる。このときは、翌日急いで山をのぼるがよい。
「ちゅっちゅっ、早くおりて行け」
と鳴いたときには、翌日急いでおりるがよい。行けと鳴かずに、ただ笑い続けていたならば、木の下に立ちよって、伐ってもかまわない。だが、もしも人の立っているところにきたないものがおちてくるようだと、虎がそこへ来て一晩中見張りをするので、人間が立ち去らずにいると、傷害を受ける。
 この鳥は昼間見たところでは鳥であり、夜中に鳴き声を聞いても、やはり鳥である。だが、ときどき遊んでいるところを見る人があるが、このときは人間の姿をしている。身の丈は三尺ほどで、谷川へおりて沢蟹を取り、人間のそばに近づいて、焼いてもらう。しかし人間は、いっさい手出しをしてはならない。

 

(99)意志の行為と、その他あらゆる行為とのあいだには、普遍的で本質的な違いがある。 ―― 意志は信仰のおもな器官の一つである。といっても、意志が信仰を形づくるからではなく、事物はそれがどの面から眺められるかということによって、真ともなり、偽ともなるからなのである。意志がある一つの面のほうを、いま一つの面よりも好むと、その見たくないほうの面のさまざまの特質を精神が考慮しないように精神をそこからそらしてしまう。そこで精神は、意志と一つになって進み、意志の好きなほうの面を眺めるために立ち止まる。このようにして精神は、そこで自分が見たところによって判断するのである。
『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一、由木康訳 中央公論社 1978年

 

ルカによる福音書

(17:22)それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができないときが来るだろう。
(17:23)人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らの後を追うな。
……
(18:22)イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
(18:23)彼はこの言葉を聞いて、非常に悲しんだ。大金持であったからである。

 

啓蒙主義者のディドロは、盲人は我々より純粋に世界を把握している、と考えた。盲人は右に手を引かれ、右に向かう。彼らは世界の多くが、「右に倣え」で成り立つと知る。感性は移り変わる。絵に対して、人は自己投影する。

 

陰茎を隠す動物の角と股袋、鎧兜と刀剣、髷と辮髪、纏足とコルセット、朝顔とチューリップ、小人と巨人は流行った。相同な人と人は、差異を付けようと趣向を凝らす。「右に倣え」は常なる状態である。更に、「右に倣え」が重ねて発動する。美人、子供、王を見て「右に倣え」が起きる。裸で町を歩く男、銃を身に付けた男、喪服の父親を見て「右に倣え」が起きる。

 

投資で富を得た。寄付団体に寄付する、寄付団体を設立する、匿名で寄付する、貧窮にあえぐ人の家の窓に金袋を投げ入れて廻る……となる。「聖人に成りたいとは思えない。しかし、神の国の右はどちらか」。選択肢の設定は選択という行為の一部である。また、ある主体の行為としては、先後関係が認められない。恩恵は選択に関わる。

 

選択肢の妥当性、口実に感情が役立つのもまた、確かである。選択肢は無数なためである。冷静に、疾しさを感じないように、意志して選ばねばならない。「貧乏人は全く信用ならないから深海に沈める」「宇宙に射出する」という選択肢を置ける。だれかに相談すべきである。情熱ある時代には奢侈品を燃やした。時代と土地の倫理は移ろう。賢い人なら、寄付団体の効率性を疑うのは理解できる。自らを救うべき、となる。疾しさを感じないように選ばねばならない。

f:id:cunsong9403:20181109174205j:plain