紹介(16) 『捜神記』 干宝 

42 扶南王
 扶南王の范尋は、山の中に虎を飼っていて、罪を犯した者があると虎に投げあたえ、虎が食わなければ、ゆるすことにしていた。そこで、この山は大虫とも大霊とも呼ばれる。また、尋は鰐を十匹飼っていて、罪を犯した者があると鰐に投げあたえ、鰐が食わなければ、ゆるすことにしていた。罪を犯していない者は、誰も食われないのである。このために鰐の池をこしらえておいたのだ。
 また尋は、水を沸騰させ、金の指輪を湯の中に投げ込んでおいてから、容疑者に手を入れて探させたこともある。すると、無実の者の手はただれず、罪を犯した者は、手を入れたとたんにやけどを負った。 『捜神記』 干宝 竹田晃平訳 平凡社 昭和39年 41頁

 

……ところで、このくじが一体どういうものであったかについては、聖なる教父たちの意見も、ふたつにわかれている。ヒエロニュムスとベーダは、旧約時代にふつうにおこなわれていたくじであったとと書いている。しかし、聖パウロの弟子であったディオニュシウスは、そのようなくじは神をないがしろにするものであるときめつけ、このときの〈くじ〉は、天からくだって聖マッテヤをつつんだ光以外のなにものでもなく、これによって彼を使途にくわえるべきことがしめされたのだという。 『黄金伝説1』 ヤコブス・デ・ウォラギネ 前田敬作、今村孝訳 平凡社 2006年 465頁

 

他者を躓かせない義務がある。「他者を躓かせない」は、「すべき」のすべてではない。contigency偶有性から、造語の道は開かれている( * (英)conscience(英)consciousness)。人は判別し、創造(客体化+処理)する。( * トレードオフ)。

  

どのような場合に、chanceを'chance'として肯定するかで、ある社会の様態が露わになる。神秘はperspecivityとして知覚している不定な存在の、集団の外からの働きかけ、所謂、'dispensation'「配剤」と認知される場合がある( * 'mediation')。配剤型の認知は、素朴に受容するか、自我を投影するか、で認知が変容する。認知ないし知覚は、主客二元論に従えば、主観で客観である。主体足るを認められたものは、集団に従えば「主観と客観」の両刀論法、ダブルスタンダードが認められる。

 

精神の機能の一つは、「物ないし認識される「形」のantithesis反を求める発想」として把握できる( * 聖体奉挙)。(この云いでは、ルネ・デカルトは'espirit'を「正で反で合」と定め、精神を道具化している( * origin,medium)。つまり、'analogous'「類似」と言いうる二対象の統合(直観+意識)型の個体の認識を(客観的に在不在を確認できないまま)正当化する道具、となる。古代ギリシアでは、総合かつ汎用の(希)Psycheから、「霊魂の記憶」云々で神秘化していたものを、「認知された事柄」その他で「迂回」し、精密さに向かう。近世近代では、精密さ、「ある状況における特定の概念の適用すべき」その他が、程度を含意する'ratio'として利用される。)

 

「精神は言葉を用い、思考する人間の特異性を述べるためのものだから」とも言える( * 「媒」)。共同体は「主体として共同体に資する」として生起してくる( * (希)phos(希)phantasia)。外から一望して「どうだ」、ではない。


もし、「「A(集合)」の要素(B(集合))を、下位の集合「B」として外延的に指事できないから、「A」は存在しない」型の否定を認めると、結果は全損となる。これは「すべてはフィクション」型の主張になる。「時制と「時間」に従うものを対象にする」と、「時制に従い、「時間」にアレンジメントとして関わる」は区別できる。人はある種の言葉をsystem制度として、「'tempus'「時制」と同品格に立てよう」、とする。

 

(羅)fictioの本来の用法はこれに関わる。「太陽が東から昇り西へ沈み、川に水は流れ、風は吹き、雲は移り、小麦は実り、……」の、「言うまでもない」のtempus時制に異界を認める。「土地Aと土地Bの(同一視)並置を許す」「地点Aでの「事」を、(「事」足るとして、)即、地点Bに効果する」は、明白ではないが、制度化する。

 

例えば、「「所有権」「月」「小麦」、「所有権」は、時間を離れて構成され、「所有権」を認める者の間では効力を発する( * (羅)caro(羅)corpus)。思考と言葉で足り、animaから切り離される。「月」は時制(→「時間」)の「良い」基準になり、「小麦」は時制(=「時間」に従属するもの」の典型とされた。

職業召命観は、「incidentで、しかも、eventなのだ」のダイモニオンの声に推して進む。「だから……」で、論拠にして進む。神の意志を援用する。「わたしは(類の部分)存在として特殊(特別)だ」に飛躍する( * discard)。「わたしを信頼している集団」が形成される。「正当な生産の蓄積」が一般化する。「キリスト教徒である」と「御国に選ばれる」が、並置されつつ思考に上る。

 

 コリント人への第二の手紙

(1:18)神の真実にかけて言うが、あなた方に対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に「否」というようなものではない。
(1:19)なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。
(1:20)なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。

 

君らの深慮を疑う気は毛頭ない。さあ、みんな、その血に濡れた手をくれ。まず最初にマーカス・ブルータス、君と手を握ろう。つぎはケイアス・キャシアス、きみの手をいただこう。さあ、ディーシアス・ブルータス、きみの手も。今度は君だ、メテラス。きみも、シナ。それから勇敢なるキャスカ。きみの手も。最後に、だが、劣らぬ友情をもって、きみの手を、トレボーニアス。ところで、みなに……いや、どう言ったらいいのか? おれに対する信用の足場はひどく居心地の悪いものだ、きみらのおれを見る目は二つに一つ、それがいずれも悪名、つまり腰抜けか阿諛追従の徒か、そのどちらかに違いない。 『ジュリアス・シーザー』 ウィリアム・シェイクスピア 福田恒存訳 新潮文庫 昭和43年 71頁

 

古典古代において既に、(希)logos(羅)ratioは、多義的である( * (希)legein拾う、集める)。'win-win'は、爆弾を押し付け合い、ナイフを投げ合う市場で生れる想念である。右の手を出され、左の手で握るなら、相手はチンパンジー、犬である。

 

「わたしたちは右利きだ」。「ぼくは左利きです」。「とるにたらぬ鏡の中の汝ではないか」とはならない。十二世紀にイスラムからイタリアの商人を通じて、複式簿記の導入が始まった( * 「単」「隻」)。

 

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https://www.metmuseum.org/

Period:New Kingdom, Ramesside or Third Intermediate Period
Dynasty:Dynasty 19–20 or later
Date:ca. 1295–1070 B.C. or later
Geography:From Egypt
Medium:Faience
Dimensions:L. 19 cm (7 1/2 in)
Credit Line:Purchase, Edward S. Harkness Gift, 1926
Accession Number:26.7.989