マタイによる福音書 (27:24)ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。

 マタイによる福音書

(5:37)あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。


小さな泥だんごが二つと、大きな泥だんごが三つ。たしたら五つ。

泥だんごを合わせたら、一つの泥だんごになるじゃないですか?

ホレイショー、天地にはお前の哲学など思いも及ばぬことがあるのだ。

土くれの土くれ。

Words, words,words.言葉、言葉、言葉。

What is the matter, my lord?殿下、中身は何ですかな。

Between who?__

i mean the matter that you read, my lord。__

あなたがたは多くのすずめよりも、まさったものである。 

 

自然は人間がconduct管理(ー(indicate指図ー)(pre)dominate支配)するはずだった。人々は好意的な伝記と同様に醜聞に集まる。歯痛を抱える人は不愉快になり、徹夜をすると失敗は増える。生活は苦行ではなく、道を歩き音楽に不意に聞き入り恥を覚えない。ヨーロッパの不潔な都市、中国の残酷な刑罰、日本の嬰児殺し、インドのカースト制度を聞くと、達観してひたすらに情報を蓄積しようという心構えが消える。男性は友人との雑談で外聞の悪い卑近の話で笑う。女性は愚痴で気を晴らす。楽しみは文化の基層に含まれ、一塊の何かに過ぎない人を人格化する。「お金は便利だ。お金を渡すと喧嘩にならない」と理解しなければ白痴である。


無媒介な実証、感性、知覚という現象に起こす事を要求している。つまり、「奇跡を起こしてみせろ!」と、主張されている。ニュースキャスターの前には、カメラを構えたカメラマンがいる。カメラとカメラマンを映すには、もう一台カメラが要る。ところで、サンフランシスコは、サンフランシスコである。アメリカのピザ屋はピザを焼く。サラダのドレッシングにフレンチ、イタリアンと冠する。サラダには、ドレッシングをかけねばならない。建国期のアメリカにおいて、更に、第一次世界大戦以降の世界中で、識字率の上昇、文筆家、記者の増加による言語一般の崩壊が始まった。長い年月を要した大英帝国の英語の形成と比べて、拙速な劇的な変化だった。むしろ、口語と文語、社会階級を統合した言語だった。英語は複数の言語の混交として成る。  

 

「良い質問です」と言うからには、「なぜ良いのですか?」に答えなくてはならない。神父の人格に関わらず秘跡は有効である。歴史の中で、ペラギウス主義者は、繰り返し現れた。ペラギウス主義者が、自ら、ペラギウス主義者と名乗ることは多くない。反キリストが「わたしはキリストだ!」と主張する場合はあるが、「わたしは反キリストだ!」とは主張しないのと同様である。人は日常の何かに愉しみを見出し、不意に笑う。酒を飲めば朗らかになり、日光を浴びて気分は晴れる。陰鬱さを装う者は、不幸であるべきと判断を下した人間に、より劣った自らに強いている陰鬱さを押し付ける。魔女狩りが始まる。人は成長し、「わたしより偉大なわたし」を持ち、現代的には「「わたし」という彼より偉大なわたし」を知っている。当然、他人には統一して見せられる。


「self-confidence自信を持たねばならない」。繰り返し聞くと「そんなものか」という気持ちを持つ。「self-confidence自信にliabrity負うところがある」と言えば明らかである。腸詰の入った肉団子である。「この肉団子はnatural自然なケーシングで、この肉団子はorganic有機的なケーシングで、この肉団子は自然で有機的なケーシングで、わたしは腸詰の外に立つこんがり焼けたハンバーグ」。混乱するのは道理である。軽業師の芸当、機知と当意即妙は危険である。ともすれば、おおよそ社会における人間の悩みは、死を引き合いに出せば空虚である。「言わずもがな」を汲まねばならない。きっと、女性は男性より「言わずもがな」が多い。


「I am a practical man.わたしは実際的な人間です」。「道徳的に、トロッコでひき殺すとき正当なのは一人か二人か」は、criticalな設問である。moral道徳においては、トロッコでひき殺すとき一人か二人かを選ばない。設問は特定性と対等さで絡み合っている。倫理はgroup集団(と言わしめる何か)の確定を前提にし、道徳は領域(と言わしめる何か)の確定を前提にする(『ハムレット』、デンマーク王:クローディアス?)。部族の偉大な酋長より、妻と息子をひき殺すのが倫理的なら、ethical倫理的に妻と息子をひき殺せばよい。妻と息子を助け、共に旅に向かうのは結構である。新たな倫理が生じている。倫理的な選択に関する問いは、「二人組の男に襲われる女性を一人助けるべきか」、にすべきである。被害を受ける人数を確実に減らす方法は明らかである。

 

 

マタイによる福音書

(27:24)ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。

 

(790)イエス・キリストは裁判の形式を経ないで殺されることを望まれなかった。なぜなら、裁判によって殺されるほうが、不正な騒動によるよりも、はるかに恥辱だからである。『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一、由木康訳 中央公論社 1978年


'Freedom, hey-day! hey-day, freedom! freedom, hey-day, freedom!'  

 

特定の人が人権に懐疑的なため、「彼は人権を持っていない」、という主張は不(可)能であるがある。特定の人間が人権を否定するため、「彼は人権を持っていない」、という主張には不合理である。人権は、見出される質か、源から備わって来るのか。キリスト教徒が人権に懐疑的なため、「キリスト教徒は人権を持ってない」、という主張は不能である。「人権を持っていない」という主張を認めないのは、人権の本質的なところの一部である。人権は本質が空虚に満ちていることが要である。明らさまな迫害は非難する。現代の慣わしである。ポンテオ・ピラトには職責が有り、他方で処刑を避けようとした。磔刑を見物したユダヤとローマの民衆は多い。人権概念が有効なために、人権はpre-existence先在である。人権が先在であるため、人権は有効である。人権が先在すれば人が発生するかは不明である。


アメリカで絞首刑にされた象がいた。家畜は飼い主の財産である。家畜が隣人を殺したら、家畜の飼い主が責任をとる。未開な社会では、家畜に対して「責任を取れ」と宣う。アメリカではジュゴンが原告になる。自然保護、動物愛護の理念は好ましい。ビーバーにダムを造る権利、動物に権利を与えるrequest要請はない。権利は法で優劣を置き、与えられていて、認められている。権利は先在ではない。閉じた社会では、「right権利」の先在の考えが支配する。「我等の右手は万人の右手」である。

 

comprehensive包括的な/synthetic総合的を拵える場合、同様の問題が起こる。所謂、「人類共同体」「人類社会」となる。主要な目的は当事者に聞かねばならない。善悪の実はイチジクなのか、メロンなのか、バナナなのか、ナツメヤシなのか。リンゴは中世ヨーロッパの絵画に描かれた。牛と暮らし、ヒンドゥー教徒は肉を食わない。労役、だ獣として牛を用いた時代はあった。(おそらく、牛が神聖な動物だからこそ)人が乗る場合があった。断食を行う隠者は多い。寒冷地で断食は減る。住民全員を栄養不足にする布教は不(可)能である。


homo ludens遊ぶ人間、homo faber工作する人間、homo politica政治的人間である、らしい、我々は(Novus homo?)。uomo universale万能人には、男性しか成れない。レオナルド・ダ・ヴィンチの死亡から、人類は衰微していくのだろうか。探求する者にとって、目的と方法の連関していること/させられることは(前提であり、)essential肝要である。仮説は、内省を繰り返した後、形成される/出来上がって来る。考察、理論、仮説の導出の(/を可能にしたと言える)過程を示せばよい。「仮説を導出した全行程を開示しなさい」。探偵、検事は、更に「本当か?」と疑ってくるに違いない。Darwinismダーウィニズムダーウィンが卒倒したシーザーの気分を味わったかは不明である。時代は夢見る近代だった。


気狂いは、想像の中に裏返した現実を入れて走り続ける。劣等な自らを突っ込み、消失させているのは狂人である。教育では方言を除く、ないし、言語の簡易化が進められた。チャールズ・ケイ・オグデンのBasic Englishである(New Speak?)。市民は様式に則り話し、書かねばならない。「style様式」という言葉が漠然としていても、人間は文章を読み得る。アルフォンス・ドーデの『最後の授業』、独仏戦争、アルザス・ロレーヌ地方のフランス語が、日本の教育において取り上げられた時代があった。公的機関は手遅れに成ってから、「手はある」と手を出す慣わしである。近代ヨーロッパの法制は、種々のprocedure手順で、共和制ローマの法を基礎に取り込む。


裁判において、聖書に手を置き宣誓が為される。聖書は神聖である。媒体は尊重するに値する。肉体より、魂を優先させねばならない。肉体を野放図にし、何ら考慮するに値しない、という判断は適切ではない。魂は肉体の影響を被っている。聖書には、常に何人たりとも誤解を生まず理解し得る、という神秘はない。蝋板にひっかき棒で記した時代なら、人々が羊皮紙の装丁と盗難防止の鎖の付いた分厚い媒体、聖書に神秘を見出すのは仕方ない。階級闘争に勝利したため、勝利している裁判官が、判決において、被告と原告の片方に味方する。いっそ、冤罪は誤審と表現した方が適切である。巻き毛を被れば裁判官である。イエス・キリストは冤罪ではない。「疑わしきは罰せず」の原則が働いていたかは不明である。イエス・キリストは人の国で有罪とされた。「イエス・キリストは悪魔に勝利した」という表現は可能であり、必要と考えられた場合はある。

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