マタイによる福音書(17:26)ペテロは「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた。「それでは、子は納めなくてもよいわけである。

マタイによる福音書
(17:25)ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家に入ると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
(17:26)ペテロは「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた。「それでは、子は納めなくてもよいわけである。
(17:27)しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初に釣れた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それを取り出して、わたしとあなたのために納めなさい」。 

 

 けだし彼らは自分たちの手元に実証的資料が欠ける場合、そして神学的ナンセンスも政治論的ナンセンスも文学的ナンセンスも売り物にならない場合には、皆目どんな歴史も生じさせず、かえって「前史時代」なるものを生じさせしかもどうしてこの「前史」のナンセンスから本来の歴史へ入ってゆくのか明らかにすることがないのだからである。―もっともその反面、彼らの歴史的思弁はこの「前史」に首ったけになるのだが。というのは、彼らの思弁はここでは「なまの事実」から侵害をうけるおそれはないと信じているからであり、同時にまた、ここではその思弁的衝動を手放しにはたらかせて仮説をいくらでも作ったり覆したりすることができるからである。『マルクスエンゲルス全集3』 真下信一訳 大月書店 1963年 24頁

 

思想は「人間の内に」形成される。人は、対象を思想に従属(対応)させる。思想により「認識の構造を与えている」「認識に構造を与えている」とも表現できる。人間は犬ではない。犬は餌を吐きだすディスペンサーと飼い主を必要から区別しない( * ヘロデの豚)。人間は、ディスペンサーの動きをexpect予想し、predict予測する( * (希)phusis(羅)nature)。

 

「経済」は、自然に対するhuman activity人間の営為の所産である。大抵のものは、「人間の営為の所産」である。「経済」は、法制度や習俗を規定する下部構造である( * vacuum真空)。個体に対峙する社会の、より下部である。自然と「経済」は、ともに「これ」と指事できる。自然のないところに「経済」は生じない。

 

一方で、経済は、経済主体たるある存在により、「自然」から抽出されたために、認められる( * 因果関係)。経済は必要として生みだされる( * homo economics)。「自然」は、経済を産出している。約めれば、economyは「節約」であり、「マクローミクロ」である。カール・マルクスの生存中には、'Capitalism'「資本主義」という表現は一般的ではなかった( * ’political economy’)。

 

人は自然を支配しようと試みる( * (羅)praetor(羅)repraesentivas)( *(羅)mandatum(羅)procucare)。人間は営為により繁殖する。類の人間の繁殖は営為と言いうる。「経済」は制度を規定する。(一介の)経済主体たるある存在の願望に合致している場合、思想(其自体)は、分析にかけられない。一般性に基づき、歴史を紐解くため、集団の内のだれが王に成ったか、は重要ではない( * 'Personality'「人格」)。

 

おそらく、 マルクスには(独)Bewusstsein「意識」は、「主体」に包括的で限界的に、「名(対象)」を与えている機関だった( * ジークムント・フロイト)。「現在」を変えなければならない。歴史を変動として、一般化の過程として、カール・マルクスが特殊的に述べるため、歴史の記述は滑らかになる。歴史を生むもの、「世界」は一塊である。マルクスの「主体」は、マルクスを含めて成立したもの、成立しているものに対するantitheseとして現れる( * 『アクロイド殺しアガサ・クリスティー)。

 

   共産主義はわれわれにとっては、つくりだされるべきなんらかの状態、現実が則るべき(であるような)なんらかの理想ではない。われわれが共産主義とよぶところのものは現在の状態を廃止する現実的運動のことである。31頁
 共産主義は一つのきわめて実践的な運動であり、実践的目的を実践的手段で追及するものであって、せいぜいドイツにおいて、ドイツ哲学者を向こうにまわして、ちょっとのあいだ「本質」にかかわりあうことができるだけだということ、こうしたことはもちろん、わが聖者にはすこしもかかわりがないのである。211頁
 彼らは共産主義的な体系や批判や論争書を現実の運動から―前者は後者のたんなる表現であるのに―取りはずし、ついで、それらをドイツ哲学との勝手気ままな連関のなかへ持ちこむ。彼らは歴史的に制約された一定の生活領域の意識をこの生活領域から切り離し、それを真の、絶対的な、すなわちドイツ的=哲学的な意識で測る。彼らはまったく首尾一貫してこれらの特定の個人たちの状態を「人間なるもの」の状態に変えるのであり、これらの特定の個人たちが自分たちの自身の状態についてもっている思想を、これは「人間なるもの」についての思想だと解するのである。494頁
マルクスエンゲルス全集3』 真下信一訳 大月書店 1963年 

 

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https://www.metmuseum.org/
Artist:Josef Maria Eder (Austrian, Krems an der Donau, 1855–1944 Kitzbühel) and
Artist: Eduard Valenta (Austrian, 1857–1937)
Date:1896
Medium:Photogravure
Dimensions:Image: 4 15/16 × 7 7/8 in. (12.6 × 20 cm)
Plate: 6 1/8 × 9 1/8 in. (15.5 × 23.2 cm)
Sheet: 13 7/8 × 19 11/16 in. (35.3 × 50 cm)
Classification:Photographs
Credit Line:Purchase, Alfred Stieglitz Society Gifts, Joyce F. Menschel Photography Library Fund, and Maureen and Noel Testa Gift, 2011
Accession Number:2011.66.8