マタイによる福音書 (5:13)あなたがたは地の塩である。もし、塩のききめがなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。

マタイによる福音書
(5:13)あなたがたは地の塩である。もし、塩のききめがなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。

 

食事の目的を 栄養の摂取 とする。((ーcoditions条件)ーfact事実)前提条件に余分を持ち込むべきではない。言葉を用いるのだから、互いに協力し合う事は必要である。antecedents前件から置かれる要素、faith信頼が要請されている。彼は旅人である。旅先で人と知り合い、家での食事に招かれた。彼は、食物(一般)のカビは害がある、という知識を持つ。当然に、「the human「その」人間(の知性)」は個別性、共通性、一般性、特殊性を備えている(ヘロドトストゥキディデス?)。状況に応じて、特定の知識がいずれの性質を持ちうるかが決まる。

 

(ⅰ)カビの生えたパンが供せられた場合、彼は、 食物(一般)のカビは害がある、という知識を前提に、パンのカビは害があると判定する。その後主張として、パンのカビについて怒る、カビの生えていないパンとの交換を要求する、「パンにカビが生えています」と、感情を現さない/感情として示されないだろう表現を選ぶ、などが考えられる。どう主張するかは不明である。現れた(/現れている)example実例は常に、常ならぬ何かである。自らの知識の一般性から 、置いた前提を除くことも考えられる。彼は、カビの生えたパンを食べる。

 

(ⅱ)カビの生えたチーズが供せられた場合、彼は、 食物(一般)のカビは害がある、という知識を前提に、チーズのカビは害があると判定する。その後主張として、チーズのカビについて怒る、カビの生えていないチーズとの交換を要求する、「チーズにカビが生えています」と、感情を現さない/感情として示されないだろう表現を選ぶ、などが考えられる。どう主張するかは不明である。現れた(/現れている)example実例は常に、常ならぬ何かである。自らの知識の一般性から 、置いた前提を除くことも考えられる。彼は、カビの生えたチーズを食べる。彼が、チーズは、カビが生えた状態で食べられる食品(例外)である、という知識を持つ場合、彼は、カビの生えたチーズを食べる。

 

家の主人の「カビくらいで死なないよ」のassumption想定は可能である。主要穀物を材料とした食品は、(慣行ー)exception例外として処理される場合がある。「選りにも選って、パン(/米)を捨てるだなんて」となる。例においては、チーズを食品一般に対する例外と置いた。チーズを特殊な食品と置かなかった。上位のmultiplex複合的な概念として、文化(戒律、アレルギー、構成材料)を考慮する場合が考えられる。前提の詳細(旅行地、カビの色、主人の体格)を問う者が現われた場合を考えねばならない。更にチーズに向き合わねばならない。穴が空いているから、実は、チーズは特殊なパンではないか。ところで、食品に空いた穴は食品ではないかもしれない。文化を問わず、特殊とされている(/された)食物を挙げるならば塩となる。概して、主要穀物は特殊な、かつ、例外な食物とされた。特殊性を有する食物(XY)は、食物一般(XX)と排他的関係にない。

 

記号 ∫ は、「intuition直観に訴えかける」は、結構である。主体として直観にprotest抗弁しようとは太い輩である。僧侶が梵字の一文字を指して、「これは抽象、演繹、帰納、還元から生じる全ての事柄を包含している」と述べたとする。わたしはbe not satisfied釈然としない。釈然としない理由を記号 ∫ が好きな人の人数で代えよう、というのは論外である。mathmatics数学の部分として意味論をexpand展開し、展開された意味論が好きな人の人数で解決しようというのは、議論の放棄である。

 

 

マタイによる福音書
(7;26)また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

 

(a)角砂糖を2個載せた皿と、3個載せた皿。(b)角砂糖を7個載せた皿と、8個載せた皿。早読み、流し読みから得られる理解が無いとは言い難い。好き好きである。人間は左右に目を備えている。片目の人間と単眼のキュクロプスは異なる。都市伝説の神は単眼である。

 

(ⅰ)一部の動物行動学者によれば、ある種の動物はcounting abirity数え上げ能力を持つ。(a)から数え上げ能力の有無は証明されず、大きさの判別で足る。原始的な生活を営む部族の語彙は、必ずしも ||||||||||、X、十、10 で基礎づけられていない。基礎づけは十進法を意味しない。例えば、野蛮な部族の語彙は |、1 と ||、2(?pair対、twin/(dual)双、copple偶、set組、set両(組))と ……、多 で成り立つ。

 

(ⅱ)measurer計測者を置き、計測者の前提に「一二三四五六七八九十……」、その他の表記法を置く。表記に結縄を用いる事は可能である。|||||||||||……でもよい。計測者は、(a)(b)の大きさ(ー数量)を判定できる。計測者には判定は認められている。計測者の思考の流れは全く不明である。

 

(ⅲ)「角砂糖」とは何か。角砂糖は、「四角て甘い」「砂糖黍抽出物」「非砂状砂糖」と表現して構わないのではないか。則ち「角砂糖」のtype型(ーidea観念)が必要である。目に見えている(/目に見えた)「これ」は、(idea観念ー)type型ではない。目に見えない何か、被造秩序に従うideaの世界がある。idea(的な)何かは、何者かにより与えられている(/与えられた)。

 

(ⅳ)ideaイデア(/観念)は、物(itselfそれ自体)と記号とのcirculation循環に過ぎない。value/estimate価値が無い。何かを示したことにならない。しかし、わたしは存在しており、疑いは「premises前提となる『premise前提』」を捨てることとなる。わたしの存在は明らかである。観念については、明らかではない。しかし、わたしは「subjective主観的な/に」対象(物)を定める。定めるという「objective客観的な(/に)」行為は存在する。そうとしか考えられない。現に、言葉(ー記号)を使うのに、これ以上require要求するのは間違っている。

 

(ⅴ)主観と客観のopposition対立は捨象しなくてはならない。安易である、それは。わたしという「subject主体」は存在し、行為する。角砂糖という「object客体」は存在し、行為しない。わたしは客体として認知される。しかし、わたしは何故定めるという行為をしうるのか。知覚とは何か。言葉を話すとは行為なのか。 

 

(ⅵ)主体は客体へstatus状態をsucceed継承する。わたしの定めるという行為は、即ち、定まっているわたしの状態を角砂糖に継承している。客体として主体は存在し、主体としての客体は存在する。わたしの視覚は、わたしの位置と方向を前提として、得られている。客体なるわたしとsquare対等な他の客体は、わたしと同様に角砂糖を定める。わたしの定めるという行為の有効性には、わたしに定まる状態を継承する主体、わたしを定めている主体が存在しなくてはならない。

 

近代的なobjecive客観的な/にとは、
(ⅰ)「あなたはこれに反論しないだろうが、」
(ⅱ)「わたしの支配する国家では、このように決定しているのだが、」
(ⅲ)「わたしが支配される(国家ー)職場では、このように決定しているのだが、」
(ⅳ)「わたしの友人の国家(裁判官ー)ー裁判所)なら、このように事実認定するだろうから、わたしがそれを代弁するのだが、」
(ⅴ)「(ⅰ)(ⅱ)を重ねて否定を打消し、国家である我々の友人、市民Aならこのように判断するだろうから、わたしがそれを代弁するのだが、」
(ⅵ)「(総合して)利益が見込めるので、」となる。蓄積は蓄積の様態を含め認める基盤が必要である。ローマは、結果として拡張していた。拡張していたローマの都は大いに華盛りだっただろう。角砂糖の視覚はfiction擬制として採用できない。種類物:角砂糖に証言者たるを認めてはあまりに愚かである。我々は鳥の視覚を持たない。他人が自らと同様に視覚を得ているのかは実証できない。実証しなくてよい。共和制ローマでは限界は常に意識されていた。都度都度、対象化されたため、明快である。碑石が語る、という理解を生む感性を構築しなければならない。各国の民話における語る日用品、付喪神は物語である。

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