マタイによる福音書 (28:2)すると、大きな地震が起った。それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。

マタイによる福音書
(28:2)すると、大きな地震が起った。それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
(28:3)その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。

 

 象徴主義は、因果論の立場からこれをみるならば、いわば思考の短絡現象をみせている。事物間の関連をさぐるに、相互間に隠されている因果関係の回り道をたどらず、とつぜん飛躍して、その関連をみいだすのだ。しかも、それは、原因と結果の関連ではない。意味と目的の関連である。
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 しかし、このようなシンボル思考は、中世にあって実念論(realism)と呼ばれ、現在、これはあまり適切とはいえないのだが、プラトン風観念論(idealism)と呼ばれることもある。存在一般についての特定の考え方に、分かちがたく結びついていたのであって、そのことが考慮されるならば、象徴主義はその恣意と未熟のよそおいをぬぎすてた姿をわたしたちにみせるであろう。
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 ウィリアム・ジェームズの説くごとく、わたしたちにしても、なお、このようなもののみかたは可能である、未開人、子供、神秘家の知恵にたちかえることができさえすれば、いつでも。かれらの考えでは、事物本来の状態は、その一般的性質のうちに、いわばとけこんでいる。してみれば、一般的性質が、すなわち事物の本性であり、存在の核心である。だから、美しさ、やさしさ、白さ、これらは、それぞれ実在であり、したがって単一体である。すなわち、美しいもののすべて、白いもののすべては、それぞれ、当然、その本性上、関連し合っているのであり、同一の存在理由をもち、神の前に同一の意味を有しているのである。意味とは、すなわちしるし(sign)のことにほかならない。
 およそこういったわけで、象徴主義は、実念論と強いきずなに結ばれていたのであった 
『世界の名著67 ホイジンガ』 「中世の秋」 堀米庸三訳 中央公論社 1979年 376頁

 

「天使は針の先に止まるか?」 天使は針の先に止まり、止まり続ける。しかし、天使は止まらない。針が止まっているならば、天使は針の先に止まり得る。針が止まっていないならば、天使は針の先に止まらない。否定と肯定の概念が優位である。会話、疑問文における否定と肯定とは限らない。天使を止めるのは神であり、止まった天使を見ているのは人間である。神(永遠)は、天使(永世)に止まる状態を継承し、それを一時的に、人間(時間)の視覚に表している。針の先とは原子核なのか、電子なのか、問われていない。人間には止まって見えている。

 

だれかが美しい折り鶴を折るために丁寧に作る。折り目を綺麗するために平たい道具で押さえる。完成した折り鶴は美しい折り鶴である。種類(物)は、被造秩序を介して、イデアと混同されうる。被造秩序とは物質に普遍性が与えられている状態である。唯名論実念論の争いである。争いがtranslate変化(ーconvert分岐)しないために解決はトマス・アクィナスの調定になる。

 

紙には厚さがある。厚さがあるから、折り鶴のイデアは存在しないのだろうか。記号 ' prime、 ’’ double prime 、鉤括弧と二重鉤括弧(「」『』)を考えねばならない。我々は折り鶴のイデア(らしき何か)を(express表す ー)indicate図示する。「我々の視覚にpoint点が映ってはならない」は排除してはならない。エピメニデスのパラドックスは、(エピメニデス(:クレタ人(:属性))「すべてのクレタ人は嘘つきだ」)となる、確かに。エピメニデスには、解決不能パラドックスである。「arbitrary任意」を使わない一人の人、古代ギリシア人のlogos、「点とは部分を持たないものである」となる。

 

figure__(羅:fingereいつわる)に当たる言葉がない。古代ギリシア人は数量を「2」から数える習慣だったという。古代ギリシア人:ユークリッドは「位置」について述べていない。ユークリッド幾何学ユークリッド空間には、「位置」が必要になる。所謂「辺が4つの三角形」「重すぎて何者にも持ち上げられない石」などは、紙面との交合により、人間が資産:「三角形」を所有している、という思考である。

 

現代の手仕事という表現は、素朴さ、手間、非同一性という含みを持つ。現代の生活では、近代以前の寸法通りへの情熱が理解し難い。数量の限定、非大量生産、個人的な受託生産、という含みの商業的な価値が高まった。品質の安定、魔術ー神話的価値から地域を問わず、寸法通りが求められた。徴税が寸法通りの計測器によらなければ民衆は怒った。1kgのイリジウムと白金である。帳尻合わせは、同様の情熱で求められただろう。

 

古事記』の建御雷は剣先に座った。地図上の地点A、Bを置く。太平洋に面した岩手県のリアス式海を想像する。太平洋に面した岩手県リアス式海岸はassumption想定できない。我々は神ではない。陸地のみを通る場合の、A、B間の最短距離を測りたい。地図の精度を上げるため、地図の倍率を高めた場合、測るべきとした長さはincrease増大する(/している)。対象の範囲を限定して、倍率を操作しているとするなら、長さは増大しうる。アキレスのパラドックスと大差ない。未開な社会では、枠組みは必要(条件(ー前提))として隠れている。「天使は針の先に止まるか」は、ラテン語esseに重点(/重心)を置き神学を構成するために生じる。日本語の表現、「……にある」では、(物的な/仮想の(ー非物的な))位置の指示、帰属(関係)、状態が混交する。

 

 

マタイによる福音書
(8:9)わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりのもの『行け』と言えば行き、ほかのものに「こい」と言えばきますし、また、しもべにこれをせよと言えばしてくれるのです。

 

「だからどうした、仕方ねえじゃねえか、止めないでくれ」。「男が一度やると決めたからには、……」。「全てを失っても……」。「危険でなに一つの保証がないからこそ、あえて……」。「男が一度自分の背中に背負ったからには……」。既に持っていた金の大半を失った賭博人、何十回と落ち続けている科挙受験者、冒険商人、アメリカの開拓者たち、革命前ロシアの農村、むしろ田園へ向かうヴ・ナロードニキの思考である。傍目には迷惑と映る場合が多い。

 

雑婚、一妻多夫は、原始遊牧民や極地、僻地、経済的に貧弱な地域で行われた。集住し安定を目指す社会共同体では、倫理的に或いは経済的理由から通婚は好まれない。東洋の神聖な王は後宮を築く。スパルタは例外である。スパルタ人は努めて極地で暮らし、極地を快いと感じるように動いていた。ギリシア、地中海のmultiplex複合的な状況がスパルタを成り立たせる。もっとも、スパルタ人のhabit習慣(/常態)とは表現し難い。古代ギリシアのスパルタ人は、スパルタ人らしく行動していた。ピエール・ブルドゥーのhabitusハビトゥスは、現代においては、適切な概念である。

 

探偵小説の始まりは、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』だと言われる。チャールズ・ディケンズの『荒涼館』とする場合はある。motive動機であり、incentive誘因とは表現されない。近代人風の行儀のよさとは限らないだろう。カインは犯行を隠した。カインが主に対して、隠す必要を覚えなかったなら、話は異なる。アベルとカインにおいて、人に対して隠すかは問題ではない。アダムとエバはいない。ここでは、羊は人ではない。確かに、我々はそれぞれに複合的な状況に直面している。

 

偉大な古代イスラエルの王、ソロモン王の父、ダビデは石投げが上手かった。ダビデ古代イスラエルの王である。原始人は、「わたしの父親が死亡したら、わたしの父親の(占)有する黒曜石のナイフは相続にかかり、協議が良好に進めば、わたしの(占)有となっているだろう」という、context内容(/前後関係)の事を言わねばならない。違いはsystem体系の有無である。「法の解釈の余地」は結構である。「法を解釈により基礎付ける」は認められない。前者は社会の限界から形成された前提と推論から成る。後者は法学者の戯言である。

 

「時間は空間の一種である」という表現をH・G・ウェルズは作品の中で用いた。アンリ・ルフェーブルの『空間の生産』である。H・G・ウェルズに類する理解では、社会空間と(デカルト的な)心的空間の再生、空間的実践、表象の空間、空間の表象が生じる余地がある。人は((estate地所ー)teritory領域(ないし))空間の中で対象を定めるとし、空間((ないし)(地所ー)領域)を設定し、空間の連続性、連続的な空間を思考できる。specific具体ーabstract抽象の循環論法の回避は要である。

 

全てを「仮想」と一般化するのは愚かである。重ね合わせ、組み換え、paradigm枠組みの転換、階層化、いずれにせよ、理解可能な包括的な枠組みを拵え、伝えなくてはならない。視覚的に示すべきかは難しい。我々は特定の記号をtarget対象にし得る。時間について我々は定められない。性質、ないし、状態:不定を対象化し、入れ子にして、「時間」の連続性は考えられる。

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