マタイによる福音書 (5:47)兄弟だけにあいさつしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。

マタイによる福音書
(5:47)兄弟だけにあいさつしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
(5:48)それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

……そして全体のいでたちは、フィレンツェのある閨秀即興詩人ベネヴィヌータにあれほどの讃辞を吐かせたこと――「ピエール・ボンボンは楽園の鳥であるか、完璧さの楽園そのものであるか、どちらとも断定しにくい。こうした細部ひとつひとつについて、その気さえあればいくらでもくわしく述べることができる――けれども、ここではさしひかえよう。外貌の詳細などは歴史小説家にまかせておけばいい。――そんなものは客観的事実の道義的権威にあたいしない。『ポオ小説全集1』「ボンボン」E・A・ポオ 永川怜二訳 東京創元社 1974年 141頁

 

太極図は宇宙の生成変化をexpressed表す(ーexpressing表している)。即ち、結構な図である。結果として分離されず(結果を分離せず)(including含んでいるー)include含む。包括的な社会、人類社会の考えがどこに至るのかは不明である。ヒッピーではないだろう。アメリカを発見し、新たに青に価値を認めるイタリアで、レオナルド・ダ・ヴィンチは自然の模倣に努める。神の似姿である人間が、黄金比を複製し、自然から学び『「自然」』を創造する。普遍に至る宗教者ではないレオナルド・ダ・ヴィンチは空虚である。現代の黄金比の礼賛は空々しい。

 

ロマン派と言えばドイツである。ゲーテやシラーより時代と地域を見据えていた。詩人にactuality現実を見なさい、と要求するのは酷である。詩人は現実から飛躍するものである。カンディンスキー抽象絵画を描く。ギー・ドゥボールは芸術の不在を述べる。社会共同体は崩れた。普遍性から物事を評価しようという発想は不能である。社会が不在では外に出る芸術家は表れない。antecedents前件を失い、previous先へと先に行き着く。

 

芸術は模倣である。中国では、常に内側へと、外側を引っ張る/引っ張り続けた。中国は、芸術で全てを、周く支配させた土地である。示される王朝の系譜は残酷さを示している。天帝は天の下の酷さのために天子を取り換える。中国の影響を受けた文化圏の歴史は、great偉大なる中国の歴史のパロディである。「我々は(偉大なる)中国の属国ではない」は、反として、中国のパロディを生むのはnature当然である。中国を参照した後に、模倣ないし反発する。base土台は異なる。中国を基準に組み立てる。天帝の創った偉大な中国である。

 

序で、中国(の歴史)が、偉大なる中国(の歴史)のパロディとして現れる。中国は(常に)、偉大なる中国の真似の巧拙を競う。中国たる事は、偉大なる中国の真似をしている事である。偉大なる中国のパロディは中国ではない。漢字とは、形而上の言語である。中国では、invention発明は起きた。穴を掘る犬(の行い)、discover発見は起きない。好ましい何かは天の下に発現している(/発現した)。発明は統治機構から正当に評価される。「王侯に成りたい」という発明者は稀である。概して「より良く遇されたい」という漠然とした望みがあるのみである。統治機構には、市場を(/市場とは)支配しなければならない、という正当な義務(感)がある。上記が「計画経済」を意味しないのは明らかである。正当な義務(感)から、過大な報酬が引き出されるのは人の世の常である。

 

「これが偉大なる中国であろうか。いや、偉大なる中国ではない」。余剰の流通より人員の補充に誘因がある。水平な繋がりより、系統の垂直な繋がりが重視される。同一の擬制の「親」を持つ、水平の子に兄と弟の(強)垂直で補填する(Big Brother?)。人間があらゆる仕事をこなす。人間より柔らかに、応用の効く財物はない。王朝の勃興で人口は増大し、飢餓となり破局を迎える。破局の頃には、統治機構の能力が著しく低下する。「こんなのは(偉大なる)中国ではない」は、中国に現れる。同じ文脈で、「我こそは偉大なる中国である」が中国に現れる。王殺しの英雄、王殺しをなした英雄を殺す逸話は散見される。血統を遡り、英雄を使い果たすのが中国である。真摯な「不死」への情熱が生まれる。周囲は同調する。聖王には不死を与えたい。繁栄が約束される。

 

通じた(/通じている)歴史の中で、中国は(外部の民族を)排外していない。既に中国の外部に暮らしている/暮らした民族を排外して、どうなるのか。異民族は中国の外に住む。野蛮人には中国の素晴らしさが判らない。素晴らしい中国が理解できないために野蛮人である。漢民族以外の王朝は、漢民族の王朝と同様に、いつの日か、「偉大なる中国」を掲げざるをえない。夷荻ではない事が、中国に引寄せられる要件である。中国に従う者は夷荻ではない。中国に従わないならば夷荻である。中心に近づく程に引き寄せられる。中心に近づく者は中国である。中国が偉大でなかったexample実例はない。

 

 

イザヤ書
(57:20)しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができないで、その水はついに泥と汚物とを出す。
(57:21)わが神は言われる、「よこしまなものには平安がない」と。

マタイによる福音書
(23:12)だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。

 

ディオゲネス先生、嫌い!」pedantic衒学的。囚人は図書館で、ジョークとジョークの番号を覚える。我々は忙しい。服役者と交わす私信、借金の督促状なら関心を引くに違いない(煉獄?)。我々は目立つ物が好きである。SNSと毎日の夢が、我々の忙しさを表出している。エラスムスとトマス・モアの友情は有名である。マルクスエンゲルスの友情は有名である。相同な思考が可能なため、誤解の恐れがなく既に信頼が築けて/信頼を築けて/信頼に置かれ、仮説に対して構築の過程を再現しつつ、建設的な批判する友人は少ない。人々は都度都度、手紙、便りを書いて送った。主体間の媒介物への相互ー二重のprojection投影である。見ず知らずの、恋文の相手は美しい。時を止めて遡り、親しい人からの手紙を読み、相手を再生出来ないとは、感性が麻痺している。人々は日記を書いた。我が生涯は美しかった。

 

トマス・モアは『utopiaユートピア』を記した。ロンドン塔が監獄なのは、イギリスの王の所為であり、魔法使いマーリンの仕業だろう。牧童と妖精の戯れる楽園は存在し、戦士が争い死に蘇る楽園は存在した。学術機関には、貴族の子息が留学する。自由七科、つまり、文法、論理、修辞の三学と、arithmetic算術、幾何、天文学、音楽である。triviam三学はlogosに関わる。特定の学問への専門性にはまだ遠い。ユートピア文学とは、自らの散乱している願望を把握し、充足の手立てを案出する試みである。日々の食事と眠りが足りたときに、何を求めるのかはとても難しい。瞑想する隠者のユートピアは、自らが存在しない彼方である。

 

university大学たるには広く、開けた状態が要請される。ギリシアアカデメイアは視界を遮る何かを踏み込ませない。「掛かるジョージ・オーウェルなる者の著作、『動物農場』は、諷刺文学と考えてよいのではなかろうか?」「御随意のままに」となる。人は神の似姿である。商人は王侯にへつらいつつ王侯を呪っている。法服貴族も同様だろう。彼は、彼より劣る高い位置に固定されている人間を、優れた人間とは考えない。血筋に認められる価値は、時代に地域で異なる。ともすれば、価値を創り、価値を認めるのは血統である。血への神秘的な崇拝は現代でも広く見られる。

 

ところで、世の中の文章の全ては、正直で率直に述べられていると考えるのは誤りである。正直な商人なら「ふくよかなコーヒー豆」「香り際立つコーヒー豆」「アラビカ種のコーヒー豆」「南米赤道直下のコロンビア産のコーヒー豆」くらいは言わねばならない。数値にして示す、製造工程が合理的である事を図示すると、味に満足する顧客は少なくない。base基体に属している属性:感性は基体それぞれである。自らが耐えるしかない苦痛ならば誤魔化したくなる。日記に愚痴を書くと鬱憤が晴れるというのも理解しうる。いずれにせよ、だれに迷惑を掛ける事を意図、予測する行為ではない。

 

疲れを知らない若いマルクスは、共産主義運動の根幹に関わる事実として、体制による検閲を批判した。検閲は、目立つ的に過ぎない事を我々は知っている。交通網の制限と整備、電子技術の規制と開発に政治権力、または、商人は尽力した。同時に、同じ事だが、彼らは暗号作りに労を割いた。商人と政治家は、次いで科学者は、他者より速く回転して踊る価値を知っている。高いところは優利である。より速く動き存在する者は、遅く動く者に合わせることが可能になる。遅い者は速い者に追い付けない。場を統合した絶えない競争が出来上がる。

f:id:cunsong9403:20181122173350j:plain