紹介(19) 『中世の秋』 ヨハン・ホイジンガ 

 騎士道をうたいながら、その実、政治的宣伝をもかねたつくりごとの、たいへん特殊な例として、しょっちゅう予告されながら、いっこうに実現されたことのない王侯の決闘というのがあった。これは、以前、別の機会に論じたところであるが、十五世紀における国家間の抗争は当時なお、党派争い、個人的な「苦情の訴え(ケレル)」と了解されていたのである。守るべきは「ブルゴーニュ人の立場(ケレル)」であった。してみれば、その言い分(ケレル)を通すべく、王侯みずから剣をとって戦うというのは、このうえなく自然なことではないか。今日でさえ、車中の放談に、そんなことを口ばしる政治家がいないでもないのだ。 『世界の名著67 ホイジンガ』 「中世の秋」 堀米庸三訳 中央公論社 1979年 208頁

 

マタイによる福音書
(7:3)なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
(7:4)どうして、自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。

 

性風俗店にエデン、パラダイスの名が付く。ジョンと名付けられた人が、イングランドの王になった。世代をこえて伝えられる知識は少ない。集団はその集団の時間を持たず、時代に抱えられもしない。英断は、決まって曲解される。道連れを求める者は雄弁である。二千年来、諸々は混ざり合っている。財産を持つ者、財産を持たない者が共に保守を自称して国家に依り付く。親が結婚したために、結婚が成される。縁組をして結納は済まされる。

 

わたしは、他人が悪いことを考える/悪いことを考えうると知って安堵する、という考えを認める。酒は好く、かつ、酒は好くない。「子どもの作る砂の城を見たら、蹴らなければ気が済まない」、という人は少ない。徒党をつくり、加害を正当化するために悪い。偶然を介在して生じた危難について、集団に支配的な潮流に従うのが危うい。罪を覚えない心が悪である。素朴な人に何かを好ませるには、ただ何かに彼の余暇を割かせるのみでいい。行為とは繰り返し、縫物である。慣れは全てを解決する。前提の従順こそが要である。自ら、自らの利益を正当化する思考が悪い。同朋と述べつつ加害し、危難における補助を拒む。

 

イザヤ書
(66:22)「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前に長くとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。
(66:23)「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
(66:24)「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。

 

騎士団員に課せられる誓約義務は、個々の騎士が、この、あるいは、あの英雄行為を遂行すると誓う誓約の集約的表現にほかならない。そして、おそらく、この騎士道誓約のうちにこそ、騎士道理想は、その基盤をあらわにしている。この理想の、いわば歴史的脈絡がはっきりと示されているのである。
……騎士誓約、これはまさしく「遺風」なのであって、これに類するものは、すでに古代インドの「ヴラタム」、イスラエルの「ナジルびと」、さらに、より近い時代に直接の脈絡をさぐれば、サガの時代のノルマンの慣習にみられたのである。『世界の名著67 ホイジンガ』 「中世の秋」 堀米庸三訳 中央公論社 1979年 194頁

 

聖職売買は行われた。常に、聖職者の一部が腐敗しているのは確かである。律法学者の一部は腐敗していた。科学者の一部は腐敗している。わたしは、part一部とexception例外の使い分けを知らねばならない。まして、事柄は「種づけ」に関わっている。老いたカール・マルクスは、W・ラングドンの『農夫ピアズの幻想』を送る事を頼んだ。マルティン・ルターは、想像力豊かで、激情に捕らわれ、身体に難があった。ユダヤ人の殺害を先導した。時代には、時代の条件がある。人々は歴史の想像に身近な物を持ち込む。まず、部屋を部屋に、魔法の暖炉と温度計を、女性は衣服と香水を、という調子である。人々は特定も時代を劣ると見たい場合、今部屋に在る自分が悪いと思う財物、技術を数える。特定の時代を優れると見たい場合に夢に浸る。

 

温度計はない。しかし、温度はある。「温度がない」という事は有り得ない。「冷たい死体」には温度がないかもしれない。生活者の尺度たる温度は、他の尺度と連続的である。評価対象と尺度が不可分な事は多い。saltはsaltyである。流行り病が、小麦(-の生育)が、妻のお腹が、木靴(の中の( ⇔ 我が膝に付く)( ⇔ (?偉大な我が)?卑小な足が))となる。人々は素朴に言語を信頼した。言語は彼岸に世界を複製した。彼岸は自らに内在する、海の彼方に在る、地下に在ると考えるかは様々である。視野の全てを包括的に説明出来ない言語、名詞、代名詞を持たない言語は形成されない。ともすれば、推論は定量化行為はしないが、「(猛威を奮う「秤」に基づく「equal衡平」と)バランスと力」という素朴な考えが支配している。近代までの各地域の生活において身近な財物だった「秤(ー印象)」は失われた。数値比較に基づく短縮はないが、散発的な推論の連鎖は整然としている。

 

大多数の人が同じように暮らしていた。(温度ー)温度(計)(のような何か)は「存在」する。観念は(擬)人化する。世界には美徳と悪徳が「存在」し、正義と罰が「存在」する。ゲルマン民族大和民族は、遺伝子の優劣で支配を正当化する。結局のところ、民衆の現実感は外面にあった。病歴は保険料を上下させる。反省するなら我々は、特定の人間について非難できない。自己弁護している男を、集合、隠された女を敵に置かねばならない。

 

主の前に人はだれであれ女性として立つ。従順にならねばならない。人に対する人に性別があるのは当然である。特に男性は敵ならどのように見て、思考するかを知るべきである。意志により全てを忘れようとして、始めから好意的に組み立てなければ理解できない思考がある。自我は他者を認め、ゆるすためにのみ赦されている。社会は当然に、自我の目的への従属を強いねばならない。敵の思考を知る価値を理解できないのは家で安住しているためである。利害対立、八つ当たりを含め、回避手段はありうる。必要が支配するところでは、根本的な対立(ゼロサム?)でなければ、争いは嫌われる。

 

子は相続人たる身分にある。パウロは同朋のために、パウロ自らが犠牲となることを厭わない。周りの信者からすればパウロが地獄に向かうとは考え難い。若いルターは地獄を怖がった。ルターについては賛否あるに違いない。神父は知識を身に付けて、職務の補助とする。知識は世界を平らかに見せる。「実例を含めて世界を平らかに扱いたい」という欲望は本源的である。同僚らしい神父、托鉢修道会には、ペラギウス主義者と悪魔が暮らしている。民衆は容易く悪魔に憑りつかれる。偶には、むしろ日々の折々に、神父の彼自身のために祈るだろう。

 

歴史の中で、特定の人間の行為は一度しか起きない。特定の人間の行為に、言い換えれば、特定性から行為の(類)型を否定して、逐一に命名するのは煩瑣である。可能であり、価値はあるだろう。原理、類として「人類」が打ち上がる。先人、師を尊ぶのは結構である。発見した天体に亡き師の名前を付けても、先人はその天体を知らない。「ユークリッド空間」「パウロ神学」「(新)プラトン主義」である。人は何かの威光を借り、口を失くした何かを継いでいると騙りたがる。古代ギリシアの僭主が神々の生まれ変わりと自称したような現象である。

 

ギリシアアリストテレスフィレンツェマキャベリは、政治学者ではない。イタリアの都市、共和制初期のフランス、ロンドンの夜警ー警察は、現代の警察ではない。裁判官は役所の職員ではない。巻き毛の有無は大いなる認識の差を示している。ギリシアの女は中々家の外に出ない。近代に至るまで、土地、財物は中々流通に上らない。都市の規模ではなく都市の数が商業を活発にし流通を生む。複雑な状態から求める単純さは、単純な状態から求める複雑さより遙かに困難である。アダムとエバは、イチジクの葉でnecessity必要が収まった。復讐を原始的状態への回帰と呼べない、一概に。

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