紹介(20) 『中世の秋』 ヨハン・ホイジンガ 

 意識の改革とは、ただ、世界をしてその意識を自覚させること、世界を自分自身についての夢から目覚めさせること、世界にたいしてそれ自身の行動を解明してやること、にある。
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 このようにして、われわれはわれわれの雑誌の意向を一言でいいあらわすことができる。すなわち、時代が自分の闘争と欲求とについての自己了解(批判的哲学)することである。これは世界のための、またわれわれのための仕事である。この仕事はただ協力によってだけ成しうる事業である。肝要なのは、懺悔であって、それ以上のなにものでもない。人類がその罪をゆるされるには、ただその罪をあるがままに言明しさえすればよい。 『マルクスエンゲルス全集 第1巻』 「独仏年始からの手紙」 花田圭介訳 大月書店 383頁

 

(35)オネットム。人から「彼は数学者である」とか「説教家である」とか「雄弁家である」と言われるのではなく、「彼はオネットムである」と言われるようでなければならない。この普遍的性質だけが私の気に入る。ある人を見てその著書を思い出すようでは悪い徴候である。……
(36)人は欲求でいっぱいで、それをみな満たしてくれる人たちしか好きではない。「あの人は優れた数学者だ」と人は言うだろう。しかし私は、数学などに用はない。彼は私を一つの命題と取り違えるかもしれない。「あの人は優れた軍人だ」彼は私を包囲中の要塞と取り違えるかもしれない。だから必要なのは、私のあらゆる欲求に全般的に応じることのできるオネットムなのだ。『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一、由木康訳 中央公論社 1978年

 

裁判においては、珍しくも互いに真摯に、相手の主張に取り組まねばならない。批判を受けたら攻撃と捉え、理解できないから貶す。「わたしには不利益な事だから」と声高に罵る。self-confidence自信があればこそである。同じ目的に向かう仲間を認めたら、「違う方法がある」と言い、高め合うのが男性である。「異なった方法が存在する」ことは当然である。methods方法は接続が可能なためにmethod方法である。方法を排他的に競争させるところでは悲惨が起きる。

 

「これはどちらの物か?」。カエサルのものではないか。「子」「女」は聞き分けが効かない。駄々をこねる。駄々をこねているからには、役割上「子」「女」である。原告と被告の峻別が起きるかもしれない。いずれにせよ、おおよそ、互いに必要から争っている。根本的には、敵ではなく同朋である。有事には力を合わせる。裁判官は焦燥感を別ち持ちえた。同朋だが、右と右が衝突している。争いでは、向かい合い、互いに右手と左手を選ばず殴り合う。卑しくも「裁判」と言わしめるには、互いに右手のみを用いると誓う。プロタゴラスパラドックスに見るように、原理としての右手のみでは手続きとして不全である。ともすれば、学問が数に頼る始末である。正しい循環が滞っている。公共から確定し、争わせなくてはならない。

 

皇帝と領邦君主の神聖ローマ帝国で発生した。(独)Beklagte被告は女性名詞である。女性は同朋では解決不能な争いを起こす。血の繋がりを確かにしたいと望むなら男は女を囲うしかない。同朋にとって女性は未知をもたらす。ソロモン王に聞かねばならない。ところで、古典・古代において、ローマ人を偉大にするローマを裁くローマ人など現れるはずがない。否である。制度として発生しない。ローマは包括的なところに現在し、「現在」を生んでいる。

 

近代からの裁判は、諸々の雑多な東洋の神話と大差ない。成立している後から先として、生活と意識を滑り込ませる。現代においては、ギー・ドゥボールの批判通り、日々の生活と裁判が神話となった。マルクス主義の批判者は、マルクスの著作を読まない。我々は忙しい。マルクス経済学者は、『資本論』と教職以外に興味を持てない。。

 

カール・マルクスは進化論の信奉者ではなく、資本論の信奉者ではない。カール・マルクスが進化論と資本論について、おそらく、それなりに「気に入っていた」だろう事は確かである。よい親は決して子(ー財産)を信奉しない。カール・マルクスは商人ではない。カール・マルクスは『資本論』の著者である。マルクス主義者、騎士ではない。右手に腕時計をつけ、馬を飼わねば参入を認めない社会があるなら、右手に腕時計をつけ馬を飼わねばならない、とカール・マルクスは実践的に判断を下しただろう。ブレーズ・パスカルは1623年、フランスに生まれ『パンセ』を記した。人々は「考える葦」という句を書き、パスカルの三角形を世に露わにするために、ブレーズ・パスカルが世に生まれたように考える。

 

  正義感は、四のうち三までは、まだ異教ふうの感情であった。復讐欲だったのである。たしかに教会は、心のやさしさ、平和、ゆるしを強調して、この権利行使の思潮を和らげるようにつとめてはいた。だが、その努力も権利意識そのものを変質させることはできなかった。それどころか逆に、教会の教えは行為の応報を求める気持ちに、罪に対する憎しみを結びつける結果となり、権利意識を助長してしまったのである。
 いまや、罪とははげしい気性のかれらのみるところ、うんざりするほどその事例は見られるのだが、まさに、おのれの敵のすること、そのことであった。
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 後期中世の司法の残酷さがわたしたちをおどろかすのは、その病的倒錯によってではない。その残酷さのうちに民衆のいだく、けだものじみた、いささか遅鈍な喜び、その残酷さをつつむ陽気なお祭り騒ぎによってである。
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 一四八八年、マキシミリアンがブリネージュで捕虜になっていたときのこと、この捕らわれの王の居室からよくみとおせる広場に、足場を高く組んだ拷問台が設けられ、裏切りの疑いをかけられた市参事会員たちが、なんどもなんども拷問にかけられた。民衆はなかなか満足せず、早く処刑してくれとの参事会員たちの懇願にもかかわらず、さらに彼らの苦しみをみて楽しもうと、処刑してしまうことをゆるさなかったという。
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 死刑を宣告されたものには、臨終のまえの聖餐礼はもとより、懺悔までをも拒む慣習が、それをよく示している。そのものの魂が救われることを望まず、地獄の劫罰を確実に保証することによって、そのものの死の苦痛をいやがうえにも高めようと望んだのだ。『世界の名著67 ホイジンガ』 「中世の秋」 堀米庸三訳 中央公論社 1979年 99頁

 

ヨハネによる福音書

(21:15)彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。イエスは彼に、「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
(21:16)また、もう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
(21:17)イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

 

想像は強壮剤となる。気狂いは想像の中に裏返して現実を入れて走り続ける。現に走り続けている。マルティン・ルターの回心には、彼の落雷を間近で見るという経験が影響した。エラスムスは、スコラ哲学者が過剰に天国や地獄の細部を記述するのを非難した。神父には民衆の悪を戒める要請を受けている。神父が民衆にどのように語ったかは不明である。我々はお節介である。少し学ぶと、自らが所属する(/自らの所属する)集団と敵対する集団に有徳の方がいて、「集団の支配者に騙されている」「無辜の人々が暮らす」と考える。すべての人は神のものである。(イエス・キリストはすべての人を贖いうる。確かである。問いは、「自ら贖いから逸れる者をイエス・キリストは贖うのか」となる。答え如何によっては正気を疑うが、意志ある一人の人間として異なった判断を導き下す者はいる。)とおりあえず、人間は教皇ローマ法王、カリフ、スルタンのいずれかが、我が物顔で好きなようにしてよいものではないはずである。東アジア伝統の族滅、共和制ローマカルタゴに塩を撒く、という発想である。集団の一部から漠然とした「全体」を引き出す。「お前は祈りの最中に邪なことを考えていた」。魔女狩りが起きる。些細な外面の変化に人々は悪を見る。ともすれば、異教は過ちを侵す弱い人間の達人芸を重視する。

 

思いつきは善意により支持されている。普遍的に成り立たせられそうな口実が拵えられる。人間は悪いため、口実があれば事を為す。自らの利益について批判的に思考しない。十字軍が起きる。商人は万事を同じ商業の平面に混ぜ込む。善意を口実に「事を起こしたい」と言い、「認可してほしい」となる。「認可できない」という回答から短絡的に相手の悪を引き出す。時代には情熱もあった。孤独な我々は僻み、傲慢である。「わたしが上に立てば上手く行かせられる」「わたしは精一杯に努力したため認められる」と考える。「同じ立場にあったら同じようにするだろう。同じようにするに違いない」「同じようにしたいものだ」もまた、内に強く働いている。

 

敵が話合いを求めて来た。「今までの事は誤解が生じていたのであり、同朋かもしれない」。だから、互いに明晰に話さねばならない。論理を信頼し、表現を創り定義する。「Aはorganization組織である」。互いに集団に未熟を抱えざるえない事を知らないはずがない。騙りは現われざるをえない。(より上位や帰属を安易に言及しできない、より上位や帰属を知らない)団体となったからには、repraesentativas代表を置かなくてはならない。内部にconspirators徒党を抱えるべきではない。内部に従属する入れ子の一団体を認めるなら、帰属関係から内部を覘けるようにして管理させなければならない。faction派閥を避けるのは難しい。派閥の否定は間違いの否定である。派閥を下で生み上に帰属させる。しかし、危うい。排他的な徒党が生じかねない。議論の場を固定し、議論の主体を選別した方が安全である。

 

「専門的な事柄に関して学識を持ち、独立して考える「主体」の群、という理念はとても危うい。とても危ういが、イエズス会は時代(国家主義アメリカ)から要請されており生まれた。第一に教皇への服従が表明される。イエズス会は、イエズス会以外の団体と全く同様に、団体の一部が腐敗していた。ブレーズ・パスカルイエズス会を批判した。留意すべきはパスカルの表現:イエズス会士は、パスカルの近場に住み、フランで活動している事である。極東、南米に渡り宣教活動に勤しむ奇特な方々ではない。少なくとも、イグナチオ・デ・ロヨラではない。corpus団体、組合、社会、組織、association協会、corporation__の違いとは何かが関わる。

 

イスラム教の天の国の棗やしその他の果実の種類、キリスト教での都の城壁のサファイヤ、瑪瑙の順序は、他の教えと比較して重要性が低いと言ってよいはずである。人たる取税人、裁判官は被告人になりうる。地獄、天の国は在る。義とされた人は安らぎをうる。不義とされた人は罰を受ける。現状、人間は神ではないのは明らかである。褒美を渡すから、という勧め方は子供に対してである。「義しいから行う」が成長した人には期待される。ところで、良識ある女性は男性からプレゼントとして「果実」をもらえば侮辱と感じるものである。果実で手なづけるのは犬、牛、猿、精々、子供である(朝三暮四?)。社会は「人(類)」を定める何かでありえた。権利(資格)、罰、追放とは何か、が関わる。subjects主体は((真に)認められた/認められている真な(conditions境遇ー)status状態である。

 

十億人以上を一般化するのに必要な指標は想像し難い。明に暗に、「わたしの友達」からの一般化、「集団の中で別けて偉大な彼」という思考が働いている。偉大な彼は、偉大な彼以外と基礎では同一である。文化の物質的差異と、「基礎では同一」は、中々に大きく影響する。そもそも一人の人間を一般化するのに必要な指標が何か定まらない。しかし、悪い我々は必要に駆られる。血統は中々便利である。能力のように漠然としていない。ヨーロッパの一部に山は在り、雨が降る地域の一部はヨーロッパである。ヨーロッパで小麦は育つ。地中海、北海、バルト海北大西洋はヨーロッパに違いない。海はヨーロッパに不可欠である。我々の住む国、暮らす地域を比較対象に置く事に正当性はない。ルネサンスには、uomo universale万能人が追い求められた。偶然、自分の家族は日本人で日本国籍を持つ。日本人が家族なら愛が大きい。我々は自らの存在をある団体との結びつき主張したがる。団体が自明な前提として理解されると、俄然に主は便利な寄託所のような様相を帯びてくる。

 

ベルリンの壁が破壊される前から不満はあった。ジャック・リーの反乱、ワット・タイラーの反乱の前から不満はあった。歴史の中で、しばしば不満の表出があり、鎮圧された。ストライキが起きる前から従業員には不満があった。疲れた黒人奴隷は黙して息を引き取った。驚くべきこと、と言わなくてはならない。ともすれば、我々はアンクル・トムの小屋の周りにしかよき黒人はいない、もしくは、黒人はアンクル・トムだと考え出す。悪い我々は視覚的な、目立つ事件を好み、事件の目立つ細部を好む。

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