紹介(21) 『中世の秋』 ヨハン・ホイジンガ 

 問題のマルコ福音書11:13については数多くの説明が試みられてきたが、そのほとんどはまったく不十分なものであったた。
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 ギリシア語のカイロス・シューコーンは≪イチジクの収穫期≫であり、件の「イチジクの季節[収穫期]ではなかった《から》」における接続詞《から》は、その直前の節「葉のほかは何もなかった」ではなく、その前の節の「実っていないかと近寄られた」を受けているという。
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 この疑問を解決するのに、件の木が通常の種類でなかったとする解釈が挙げられる。
 ……『聖書植物大辞典』 ウィリアム・スミス 藤本時男訳 株式会社国書刊行会 2006年 153頁

 

総会は会に在籍してまだ一四年の、三七歳のローマ管区長、クラウディオ・アクアヴィヴァを選出した。アトリ侯爵の子息で、古典、哲学、神学、法律の教育を受け、司祭に叙階され、ヴァチカンの権力中枢部内の要職に就いていた、このきわめて聡明な人は、一五六七年七月に、二四歳のとき、イエズス会に入会し、修練期を経て、短期間哲学を教えた後、ナポリ修道院長、ナポリ管区、その後ローマ管区の管区長にと次々任命された。アクアヴィヴァが長年にわたり扱わねばならなかった問題は驚くほどこみ入っていた。それは、イエズス会士の数が五千人から一万三千人に増えてほぼ三倍になるにつれ、イグナティウスの理想と目的を純正かつ真正なものに保つこと、学校が一四四から三七二に、会宅が三三から一二三に、管区が二一から三二に増えるのにともなう円滑な組織化、中国とインドの現地文化にカトリック信仰を適応させること、イエズス会の教育方法の成文化、海外宣教の拡張を指揮すること、といった問題である。『イエズス会の歴史』 ウィリアム・V.バンガード 監修:上智大学中世思想研究所 原書房 2004年 118頁

 

マタイによる福音書
(12:36)あなたがたに言うが、審判の日には人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。

 

打算に基づいた寛容には値が既に置かれている。上に立つ者の寛容は当然であり、寛容から利益を得ている。長い推論は危険である。人は都合のよい解釈を探す。自らに都合の良い部分しか受け入れない。奇跡は減った。我々は他人に多くを、少なくとも自らと同程度の誠実さを期待する。同様に自らと同程度に結果を予測できると期待する。アルベルト・アインシュタイン入れ子を嫌った。人間は一人では生きていけない。物としての人間は相互に依存している。人間は社会的な協同を試みるべき生物である。前者から引き出される結論は奇妙である。causality因果性から物事を捉える価値を考えねばならない(causa liberalis?)。結論の奇妙さは禅である。問題は、推論の過程(ー経路)であり、結論は既に定まっている、概して。

 

組織の成員の一部が腐敗するのは避け難い。組織の拡大する速度は重要である。共産主義ギリシアのスパルタを普遍化する計画だったとは考え難い。宇宙戦争である。財の全き流動化を、確かにカール・マルクスは予見した。まだ金本位制だった。共産主義世界同時革命は必要である。雑婚は肯定される。相続制度は否定される。雑婚制度を造るとはだれも述べていない。カール・マルクスの偏向という非難は不当だろう。

 

「なぜあの時、わたしに賛成しなかったんだ。あなたが嫌いだ。あなたの時に、わたしも賛成しない」。明に暗に、世の中は上記の痴愚の論法で回されると知らない者は世間知らずである。また、忙しい人は自らの直近の生活に関わらないと判断したとき、思考を節約する。彼と関係がなさそうだから、彼は集団の潮流に従う。知り合いの意見を素直に受け入れる。焦燥感を再現しないためである。自らも忙しく、直近の生活に追われているためである。一度崩れた社会の主体は、力のより強い方(ー誘因)へと引き寄せられる。市場原理を採用するならば、なおさらである。

 

「わたしの家では、わたしと妻と娘、日替わりで晩御飯を決めることにしています。その方が公平ですから」。平和な暮らし振りは結構である。教皇権に関わる事柄には適用できない。人々は多数決が好きである。身近な生活から余計な前提を持ち込み、自らの知識と生活の安全を確信している。自ら(の利益)に対する批判が働かない。数を否定すれば圧制だが、正当性の根拠に数をおけば悲惨である。貧富が見えれば、争いを激しくする誘因は強くなる。他人の争いを愉しみ、利益を得ている者がいると知らない者は世間知らずである。

 

人々は日和身である。力の強そうな何かに寄り付く。運動を理解しない。自らに損害が見込めれば否定する。自らに利益が見込めれば肯定する。自らの立身出世と安定以外を望まず、懐柔され易く、直ぐに背を向ける。「顔が汚れて力が出ない」。「汚れた頭をすげ替えると元気なる」。国家、株式会社ならその手続きで済む。「科学者」「科学的」という概念は未定義である。「科学者」を名乗る者は、confession告白から利益を引き出している。科学者は「これだ」としか言えない。責任は転嫁される。一妻多夫である。

 

情熱の雰囲気、これこそがトーナメントを意義あらしめていたのであるが、これはまた、なぜ教会が、ずっと以前からこの風習に反対し、闘ってきたかを説明してもいる。
……すでに一二一五年、ラテラン公会議決定に、こういっている、がんらい、これは戦いにそなえての訓練のためにはじめられた行事だったが、悪用によって耐えがたいものになってしまった、と。国王たちも禁令をくりかえしている。モラリストも非難した。ペトラルカはペダンティックに問いかけている。キケロスキピオがトーナメントをやったなどと、いったいどこに書いてあるか? そして、市民は肩をすくめる。ある有名なトーナメントについて、パリの一市民はこういっている、「どんなつもりか知らないが、かれらは、試合をやったのだ」
……この闘争遊戯をおおいにつつんでいたのが、アーサー王物語の世界の幻想であった。子供っぽいお伽噺の空想というべきだろう。次元がずれて、巨人だの小人だのが登場する夢の冒険行に、みやびの愛の感傷が同行するのである。『世界の名著67 ホイジンガ』 「中世の秋」 堀米庸三訳 中央公論社 1979年 181頁

 

平時に重厚さを求め、自らの危難に迅速な対応を求めるのは卑怯である。つまり、我々には理解できる。対象に自らを映すのは弱い我々に相応しい。定めている対象に映されているのは、自らの美点であり汚点である。対峙する人間は常に言葉で把握できる以上の者として現れる。人は何かを真似しなければ「我々」にならない。常に、欲しい何かとは欲しい何かだった。食事と睡眠と性は重要である。資産をより多く持ち、より効率よく回せば、身近に暮らす者から褒められた。人は飢える心配がなく眠りが足りれば人らしいの望みを持つ。我々は知性とともに、我々は知性として生まれ育つ。

 

学問は、個人の夢と孤独を反映した。天文学者の側に天文学者が暮らすとは限らない。本は友人となる。第一次世界大戦第二次世界大戦では、喧噪から逃れる科学者、文筆家の姿が散見された。妻と母親は頼りにならない。友人は近くに居ない。理論は成立している。「成立しているはずではないか?」である。実験により証拠の確実性をは高められた。健全な彼は、周囲の追認が無ければ不安である。経済的に豊かであれば、親子の関係は良好である、概して。利他的な行為、利己的な行為が確実に混ざるため、家族、血縁、地縁は危険である。ヒッポのアウグスティヌスは強いて家族を遠ざけた。

 

特定の人の、世俗の生活での失敗は、その人の信仰に困難を与える。誠実さを望むほど、信仰が欲望に基づくのかと疑う。若いカール・マルクス法律学を学んだ。赤貧に耐える経済学者は少ない。人類社会の概念のためには、人間と同様に記号を操る宇宙生命体を呼ばねばならない。猿の人類社会という概念は不要である。人類社会の一部が猿なのだろう。猿は自らの利益を見込まなければ行為しない。猿や顔料に対して、人間の偉大さを説くのは愚かである。我々は神ではない。「聖人は殉教し、聖人に感動した人々が入信して殉教し(聖人は殉教し)聖人に感動した人々が……」。このような進み方はしない。

 

……「自分のブドウの木やイチジクの木の下に座る」ということが、ユダヤ人のあいだでは安寧と繁栄を象徴することわざ風の表現になった(列王記上4:25[5:5],ミカ書4:4,ゼカリヤ署3:10)枝を大きく広げるというイチジクの木の特徴は、≪枝が広がった≫を意味する動詞ターアン__からテエーナーが発生したとする語源説と合致する。 『聖書植物大辞典』 ウィリアム・スミス 藤本時男訳 株式会社国書刊行会 2006年 148頁

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