紹介(19) 『中世の秋』 ヨハン・ホイジンガ 

総会は会に在籍してまだ一四年の、三七歳のローマ管区長、クラウディオ・アクアヴィヴァを選出した。アトリ侯爵の子息で、古典、哲学、神学、法律の教育を受け、司祭に叙階され、ヴァチカンの権力中枢部内の要職に就いていた、このきわめて聡明な人は、一五六七年七月に、二四歳のとき、イエズス会に入会し、修練期を経て、短期間哲学を教えた後、ナポリ修道院長、ナポリ管区、その後ローマ管区の管区長にと次々任命された。アクアヴィヴァが長年にわたり扱わねばならなかった問題は驚くほどこみ入っていた。それは、イエズス会士の数が五千人から一万三千人に増えてほぼ三倍になるにつれ、イグナティウスの理想と目的を純正かつ真正なものに保つこと、学校が一四四から三七二に、会宅が三三から一二三に、管区が二一から三二に増えるのにともなう円滑な組織化、中国とインドの現地文化にカトリック信仰を適応させること、イエズス会の教育方法の成文化、海外宣教の拡張を指揮すること、といった問題である。『イエズス会の歴史』 ウィリアム・V.バンガード 監修:上智大学中世思想研究所 原書房 2004年 118頁

 

情熱の雰囲気、これこそがトーナメントを意義あらしめていたのであるが、これはまた、なぜ教会が、ずっと以前からこの風習に反対し、闘ってきたかを説明してもいる。
……すでに一二一五年、ラテラン公会議決定に、こういっている、がんらい、これは戦いにそなえての訓練のためにはじめられた行事だったが、悪用によって耐えがたいものになってしまった、と。国王たちも禁令をくりかえしている。モラリストも非難した。ペトラルカはペダンティックに問いかけている。キケロスキピオがトーナメントをやったなどと、いったいどこに書いてあるか? そして、市民は肩をすくめる。ある有名なトーナメントについて、パリの一市民はこういっている、「どんなつもりか知らないが、かれらは、試合をやったのだ」
……この闘争遊戯をおおいにつつんでいたのが、アーサー王物語の世界の幻想であった。子供っぽいお伽噺の空想というべきだろう。次元がずれて、巨人だの小人だのが登場する夢の冒険行に、みやびの愛の感傷が同行するのである。『世界の名著67 ホイジンガ』 「中世の秋」 堀米庸三訳 中央公論社 1979年 181頁

   

 意識の改革とは、ただ、世界をしてその意識を自覚させること、世界を自分自身についての夢から目覚めさせること、世界にたいしてそれ自身の行動を解明してやること、にある。
……
 このようにして、われわれはわれわれの雑誌の意向を一言でいいあらわすことができる。すなわち、時代が自分の闘争と欲求とについての自己了解(批判的哲学)することである。これは世界のための、またわれわれのための仕事である。この仕事はただ協力によってだけ成しうる事業である。肝要なのは、懺悔であって、それ以上のなにものでもない。人類がその罪をゆるされるには、ただその罪をあるがままに言明しさえすればよい。 『マルクスエンゲルス全集 第1巻』 「独仏年始からの手紙」 花田圭介訳 大月書店 383頁

 

……「自分のブドウの木やイチジクの木の下に座る」ということが、ユダヤ人のあいだでは安寧と繁栄を象徴することわざ風の表現になった(列王記上4:25[5:5],ミカ書4:4,ゼカリヤ署3:10)枝を大きく広げるというイチジクの木の特徴は、≪枝が広がった≫を意味する動詞ターアン__からテエーナーが発生したとする語源説と合致する。 『聖書植物大辞典』 ウィリアム・スミス 藤本時男訳 株式会社国書刊行会 2006年 148頁 

 

人は都合のよい解釈を探す。奇跡は減った。人間は相互に依存している。因果性から見るからには、背理による推論が認められ、遡及が認められる( * causa liberalis)。おそらく、仏の教えは「区別と分離」を区別しない。が、仏教は分離する( * 大乗小乗)( * 禅問答)。

 

コミュニスト世界同時革命は必須である( * 宇宙戦争)。婦人の共有は肯定される。すべてをコミュニズムの時間軸に従わせる。家族制度、相続制度は破壊される。ユダヤ人の既婚者、カール・マルクスは「婦人の共有を制度化しよう」と述べていない。カール・マルクスマルクス主義者ではない。(「人一般」ではなく)人間一般の欲望を肯定するため、人類学的考察から、「コミュニズムは、自然的には、婦人の共有になるのではないか」となる。マニフェストは、記憶に残るように表現する。「家族」「婦人の共有」の意味は、マルクスが他で論じている。

 

手続きの正規性と制度化を全般的に疑う。共同は前提だが、「ただ一人の労働」を計量の基準として重視する( * (羅)labor(羅)ritus(羅)ago)。「復古」「発展」は、政治的に利用されるため、破壊活動に終始する。迷惑だが、貧窮と不幸は隣人の迷惑の受容を強いさせる。「虚仮にされた」「根を断たれた」と感じた、二重否定的な負け犬根性である。「より迷惑を掛け、厄介となる相手を選びたい」「「正しい」の敵の敵に成りたい」は、心情として間々ある。人は、欲求があるから理論をつくり、「相手に立て」「仲間に成れ」と迫る。「無視できない」「悟りに導け」も、欲求である。
期待と目論見があるから言葉を用いる。

 

思想は「人類の一世代」と認識の歴史化を根幹として、ヒロイックさを隠すため、魅力的である。「特権的な貴族階級からブルジョアへ、ブルジョアから……」の前提において、とても素直である。制度化を拒むため、「窃盗は罰する」「発展の果実を技術発展に投下する」にはならない。特権が復活している。

 

「なぜあの時、わたしに賛成しなかったんだ。あなたが嫌いだ。あなたの時に、わたしも賛成しない」。人は、強そうなものに寄り付く。根本的な変動があれば、安易な方へ引き寄せられる。記号(道具)を用いる人間は、予防と安全を正義の本義とする。せざるを得ないが、「せざるを得ない」から多く引き出す。

 

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https://www.metmuseum.org/
Artist:Lorenz Frølich (Danish, Copenhagen 1820–1908 Hellerup)
Date:1835–1903
Medium:Pen and dark brown and reddish-brown ink, brush and grey wash over traces of graphite.
Dimensions:7 3/16 x 4 13/16 in. (18.2 x 12.2 cm)
Classification:Drawings
Credit Line:Gift of Lincoln Kirstein, 1966
Accession Number:66.576.10(8)