紹介(22) 『クルミ割り人形とネズミの王様』 E・T・A・ホフマン 

 上級裁判所顧問官のドロッセルマイヤーさんは決して美男子ではなくて、小柄で痩せており、顔は皺だらけで、右眼がなくて、そのかわりに大きな黒い眼帯をかけています。また頭の毛が一本もないので手の込んだ真白なガラス細工のカツラをかむっています。だいたいこの名親のほうも、非常に器用な人で、時計のことまで知っていて、自分で組み立てることができるのでした。 『ドイツ・ロマン派全集 第三巻』 「クルミ割り人形とネズミの王様」 E・T・A・ホフマン 前川道助訳 株式会社国書刊行会 1983年 245頁

 

マタイによる福音書
(8:31)それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
(8:32)しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
(8:33)イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
(8:34)それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(8:35)自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
(8:36)人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。
(8:37)また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
(8:38)邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。

 

(775)omnesをいつも「みな」と解する異端があり、またときによって「みな」と解しない異端がある。<みな、この杯から飲め>ユグノーはこれを「みな」と解する異端である。<すべての人が罪をおかした>ユグノーは信者の子を除外する異端である。だから、われわれはそれぞれの場合を知るために、教父たちと教会の伝承に従わなければならない。なぜなら、恐るべき異端はいずれの側にもあるからだ。
(777)<一般的>事実と<特殊的>事実。半ペラギウス派は、「特殊的」にのみ真であることを「一般的」だと主張することにおいて誤っており、またカルヴィニストは、「一般的」に真であることを「特殊的」だと主張することにおいて誤っている(と私には思われる)。
(781)あがないの全体性の表徴は、太陽が万物を照らすように、ただ全体だけを示す。しかし、除外性の〔表徴〕は、異邦人を除外してユダヤ人をえらんだように、除外を示す。 ―「全ての人の贖い主イエス・キリスト」―そのとおりである。なぜなら、彼はそのもとに来ることを望むすべての人をあがなう人として、贖いを提供されたからである。中途で死ぬ人々があったら、それは、その人々の不幸である。だが、彼の方からいえば、彼は彼らに贖いを提供されたのである。
 なるほど、そういう例は、あがなう人と死を防ぐ人とが別人である場合には、当たっている。が、両者を兼ねているイエス・キリストの場合には、当たらない。 ―いや、そうではない。なぜなら、イエス・キリストは贖い主の名においては、おそらくすべての人の主ではないであろう。したがって、彼は彼があがないうるかぎりにおいて、すべての人の贖い主なのである。『中公パックス世界の名著 29』 「パンセ」 ブレーズ・パスカル 前田陽一、由木康訳 中央公論社 1978年

 

同朋を客として招いたからには、普段の食事以上の料理を供したくなる。相手が喜ぶという保証はない。ともすれば、贈与と交換、虚栄である。しかし、生じた複雑に絡み合う感情を否定できない。技芸が生まれる。

 

人が二人いれば、相手によりよいものを与えねばならない。エバは、また、必要から応じて働くアダムも、’good'、「良」、’bona’を知らねばならない。最早、必要で満足できない。「資産」理解が素朴なら、単位へと分化せず、「集団と自己犠牲」の理念を強化し、ともすれば、(自らの)肉体に特殊な地位を認める思考になる。’bona’は遊離し、必要と満足が常に一致するように働いた、一致するように働かせた。

 

人間的には、'bona''good'「良」からしか条件節を置けないため、'sufficient''necessary'「満足」「必要」ともにmodifier修飾である(condition、pre-condition?)。上界の(満足)条件は、下界では必要かつ満足、非修飾な条件となる。

 

'bona'に生きるため、政治階層は立案の趣旨を含めて述べられねばならない。趣旨を述べるからには、自らの党派や立脚する前提を隠せず、明示せざるをえない。玉虫色のところを決定せねばならない。党派の対立は明確で激越になる。少なくとも、「健全な政党制」ではない。

 

親は、子供の頬に脂が照り赤みがあれば、痩せこけているよりは幸せを感じる。子供を口実にすれば、親は大抵の事を正当化できるようになった。トマス・アクィナスは、暴食を節度のない食事と関連付けた。人は飢えて寒いと死ぬ。

 

direct直接(的)、indirect間接(的)。「生存が死の直接の(/直接的な)原因である」「生存の直接的な帰結として死ぬ」とは表現し難い。「生存が死の原因である」もまた、難がある。実存に関わっている。表現に形容詞、ないし、状態を置き、「的」に助詞を付ける功罪である。おそらく、表現に「的」が付く場合には何かを映そうと試みている。視覚が社会的に優位にある。「奇跡を起こして見せろ」、となる。

 

「具体的」は「具体」ではない。「抽象的」というからには、漠然としていて、写せないものを映している( ? 「カルデジアン劇場」)。「創造があらゆる悲劇の直接的な原因である」。優劣のあるものに対して用いる場合、直接、間接という言葉は厄介である。助詞と想像に引きずり込まれる。仮想されている同一平面、空間が直接、間接という言葉を用いさせる。ともすれば、神の知り合いの様である。

 

肉体を備えた人間は、ひとところにしか存在できない。僻みは嫉妬とは異なる。「僻みはない」は、むしろ危険である( ? アベルとカイン)。夢での視覚、「心の目」、いずれにせよ、「両眼で見ている」と考えなければならない、とはならない。

 

ルターの教説が政治的に利用された、というかむしろ、教説は一部のドイツ領邦君主には、自らの支配する地域の経済的利益に繋がるものに見えたことは疑いない。上記では、「経済的利益」とは、社会共同体の財物の蓄積の外部の流出を防ぐことである。

 

王政、共和制ローマの頃には既に、(羅)fiducia信用は英雄ヘラクレスと結びつけられていた。なお、(羅)fiduciaは、女性名詞である。信用は、当然に都市の基盤を要求しつつ、発生する。古典ローマの信用は、資産を含め、(透けて)認知される「力」、つまり、資産の規模、個人の事業への動員数、「善き振舞い」が不可分のところに起きている。(取引)社会の尊重を当然に要求する。覇権を握っている一般的なローマ市民たる以上の場合に、若しくは、ギリシア人として複数のポリスに亘り名を馳せている場合に、信用は十全に機能を果たす。

 

信用が強まったなら、認容される事業は増えている。地縁と系譜を乗り越えた、「難業を為した個人」という、『オデュッセイア』に見られる、世代と反復行為と切り離された、物語的な特定の人間の理解が育まれた。遍歴、(王の)帰還、回復である。『オデュッセイア』で明らかなように、オデュッセウスユリシーズ)は決して冒険を望んでいない。そもそもトロイア戦争にも渋々と赴いた。前提からして、旅に対しては否定的である。トロイア戦争の英雄:オデュッセウスの故郷イタケ―への帰路には、難業と難業への神々の計らい、援助があった。オデュッセウスは与える神々に感謝しつつ、難業を乗り越えた。

 

西方教会東方教会はともに、「聖人」として人間の英雄的な理解を転用した( ? 第二ニカイア公会議)。一定の方式による組織への属性:名を持つ個体の取り込みである。帝政ローマ、神学、ケルト、ゲルマンの文化のいずれにせよ、personaの関連は大いに拡張する( ? titulus)。また、制度:十分の一の税がなければ、「農民の可処分所得が増えただろう」という考えは安易である。教会は希釈または濃縮を受け入れない信用を供与した。f:id:cunsong9403:20181215181942j:plain