紹介(23) 『クルミ割り人形とネズミの王様』 E・T・A・ホフマン

焦尾琴
 漢の霊帝のとき、陳留(河南省)出身の蔡邑は、再三上奏文を奉って自分の考えを述べたが、これがみかどの機嫌を損じ、またみかどの寵臣にも憎まれた。そこで、このままでは命も助かるまいと考えて辺地へ逃亡し、遠く呉群、会稽のあたりに行方をくらました。
 呉群に来ると、その土地に桐の木を燃やして煮炊きしている人がいた。邑は木のはぜる音を聞いて、
「これは良い材だ」
 と言うと、その桐を譲り受け、削って琴をつくったところ、果たしてすばらしい音色が出た。しかし先きの部分が焦げていたので、「焦尾琴」と名づけたのであった。『捜神記』 干宝 竹田晃平訳 平凡社 昭和39年 41頁

 

中世キリスト教社会にあっては、生活のあらゆる局面に、宗教的観念がしみとおり、いわば飽和していた。すべての事物、すべての行為が、キリストに関連し、信仰にかかわっていたのである。つねにそうであった。つねに事物のすべての宗教的意味を問う姿勢が見られ、かくて、内面の信仰はひらかれて、おどろくほどゆたかな表現を展開する。
 だが、この信仰の飽和状態にあっては、霊の緊張、真正の超越、現世からの解脱ということは、かならずしもみられない。緊張がとける、すると、ほんらいの霊の意識を刺激するはずのものが、すべてその力を失い、恐るべき日常卑俗事に堕し、彼岸のふうをよそおいながら、その実、おどろくほど現世的なものになってしまう。
……
 ほんとうに、その熱情はどこにいってしまったのか。贖宥の義務に、日ごろやりつけた家事仕事が課せられているのである。かまどを準備するとか、牛の乳をしぼるとか、壺をみがくとか。一五一八年、ベルヘン・オブ・ソームで催された富くじ会では、「多額の賞金」と贖宥符とが、交互に当たったという。291頁
この時代、たまたま、ラテン語の「ミステリウム」と「ミニステリウム」とが、フランス語の「ミステール」という言葉のなかで、いっしょになってしまっていた。このことは、必然的に、この言葉にふくまれている「神秘」という意味内容を弱め、日常慣用においては、なんでもかんでも、「ミステール」と呼ばれる風潮を作り出したのである。たとえば、オリヴィエ・ド・ラ・マルシェは「涙の泉の武芸試合」で使われた小道具、一角獣だの、楯、人形のたぐいまでをもそう呼んでいる。301頁
『世界の名著67 ホイジンガ』 「中世の秋」 堀米庸三訳 中央公論社 1979年

 

 象徴主義は、因果論の立場からこれをみるならば、いわば思考の短絡現象をみせている。事物間の関連をさぐるに、相互間に隠されている因果関係の回り道をたどらず、とつぜん飛躍して、その関連をみいだすのだ。しかも、それは、原因と結果の関連ではない。意味と目的の関連である。
……
 しかし、このようなシンボル思考は、中世にあって実念論(realism)と呼ばれ、現在、これはあまり適切とはいえないのだが、プラトン風観念論(idealism)と呼ばれることもある。存在一般についての特定の考え方に、分かちがたく結びついていたのであって、そのことが考慮されるならば、象徴主義はその恣意と未熟のよそおいをぬぎすてた姿をわたしたちにみせるであろう。
……
 ウィリアム・ジェームズの説くごとく、わたしたちにしても、なお、このようなもののみかたは可能である、未開人、子供、神秘家の知恵にたちかえることができさえすれば、いつでも。かれらの考えでは、事物本来の状態は、その一般的性質のうちに、いわばとけこんでいる。してみれば、一般的性質が、すなわち事物の本性であり、存在の核心である。だから、美しさ、やさしさ、白さ、これらは、それぞれ実在であり、したがって単一体である。すなわち、美しいもののすべて、白いもののすべては、それぞれ、当然、その本性上、関連し合っているのであり、同一の存在理由をもち、神の前に同一の意味を有しているのである。意味とは、すなわちしるし(sign)のことにほかならない。
 およそこういったわけで、象徴主義は、実念論と強いきずなに結ばれていたのであった。
……
 実念論象徴主義、擬人観、この三つの思考方法は、一本の太い光の束となって、中世精神を照らし出していたのであった。
 おそらく、心理学は観念連合なる述語を使って、象徴主義のいっさいを説明しきってしまうであろう。だが、精神文化の歴史学は、もっと敬意ある心構えで、これにのぞまなければならない。シンボルをあやつることによって、およそ存在するものすべてを説明しようとするこの象徴主義のもっていた、生命力あふれる価値には、実際はかりしれないものがあった。
……
 まさしく、これは、思想の多声音楽なのである。ねりにねられた象徴主義にあっては、イメージのひとつひとつに、シンボルの和声がゆたかに鳴りひびく。シンボル思考は、思想のめまいをもたらし、知性がはたらくまえに、事物それぞれの概念限界をみうしなわせ、理性の思考のかたくなさをなだめ、かくして、生命感をその絶頂に押しあげる。
『世界の名著67 ホイジンガ』 「中世の秋」 堀米庸三訳 中央公論社 1979年 376頁

 

……すなわち、彼はあらゆる法から解放され、実定法の拘束より上位にある。理性は、公共の利益やその時々に変化する必要性に応じて、いつでも実定法を変更することができ、皇帝が実定法の父であるように理性は実定法の母である。ところが他方で、あらゆる王の上位にある理性は、皇帝の上に位置するものであり、したがって皇帝は理性に拘束されることになる。彼は〈法律から解放されている〉(legibus solutus)が、〈理性に拘束されている〉〈rational alligatus〉わけである。
 この理論には危険性がないわけではない。理性の解釈は容易に皇帝のみによって行われるからである。事実、これから一世紀も経たないうちにこの半ば神的な〈理性〉は〈王と祖国の理性〉(ratio regis et patriae)となり、後者は国家理性と同義とみなされることになる。以前はそれ自体において目的とされていたものが、国家統治の道具となり、単なる手段となるのである。『王の二つの身体 中世政治神学研究』エルンスト・H・カントローヴィチ 小林公訳 平凡社 1992年 128頁

 

聖書には、カモノハシ、タツノオトシゴに関する記述がない。有袋類や特定の水棲生物の不在から聖書の不完全性は引き出せない。中東、地中海地域で聖書は記された。種類の家畜と木材は決まった効果を与える。人の言語の連関は表現を規約する。人は多くを記憶できる。労働が費やされた事は重要であり、相同な事柄に対して相同な表現を生む集団、階級が生じる。

 

芸術は社会を反映する。余剰が鋭敏な感性をゆるす。感性は、集団の動きを形づくるために必要である( * 職業軍人、民族感情、’common sense’)。相手から見て、わたしの内部は隠れている。わたしから見て、相手の内部は隠れている。記号との付き合い方を知らねばならない。知らねばならないことは、記号と付き合う方法である。( * 'I defy you!')

 

signifian・signifieは、記号学の従う還元を正当化する。むしろ、前提としてモデル:対話による。時代は演説からマス・コミュニケーションに移る。signifian・signifieは、多数決に親和的である。文脈的な、contextからの解釈、つまり、手段=意味の連関、意味付け行為すべての否定に向かうことは愚かである。


命名行為、言語の比較行為、contrast対照する記号、対照している記号への適用には便利である。自らの行為で一杯一杯である。おりしも、新種の発見、新たな化学物質の合成の成功は続き、系統分類の確立が望まれた。

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