紹介(10) 『燃えつきた地図』 安部公房 

 だが誰であれ、それら四つのそれぞれがそれだけ単独で言われているのを、われわれが命題もしくは問題だと言っていると解してはならない。そうではなく、それらから、問題や命題が生じるというのである。問題と命題の違いはその表現の仕方にある。つまり「はたして「二足陸棲の動物」は人間の定義式であるか」とか、「はたして動物は人間の類であるか」というような仕方で言われれば、それは命題となるし、「二足陸棲の動物」は人間の定義式であるか否か」と言われれば、それは問題となるのである。これは他のものの場合にも同様である。その結果、問題と命題が数の点で等しいのは当然である。どんな命題からでも、その表現の仕方を変えれば問題を作ることができるのだから。28頁

ところで、無条件には、より先なるもののほうがより後のものよりもよりよく知られる。たとえば、点のほうが線よりも、線のほうが面よりも、面のほうが立体よりもよく知られる。ちょうど「一」のほうが数よりもよく知られるように。なぜなら、「一」は数よりも先なるものであり、あらゆる数の始原であるのだから。232頁

また、相手が関係的なものについて、それらの種差を他のものと関係させて与えていないのかどうかも見る必要がある。なぜなら、関係的なものの種差もまた、関係的なものなのだから。ちょうど、知識の場合がそうである。というのは、知識は観想的と、実践的と、創作的と語られるが、これらのそれぞれは何かとの関係を示しているからである。すなわち、それらは何かを観想することのできるもの、何かを作ることのできるもの、何かを実践することのできるものなのだから。246頁

アリストテレス全集 3』 「トポス論」 納富信留、山口嘉久訳 岩波書店 2014年 

 

その著作の内容からしても、ものの見方からしても、アリストテレスはわれわれのいう哲学者というよりは、第一義的には自然科学者、つまり自然の探求者であった。「自然哲学者」という古めかしい呼び名の方が、むしろ彼の立場をぴったりといいあてる。とくに彼は動物学者、生物学者であり、したがって自然(フュシス。「生成の過程」が字義)についての彼の考え方は、多くのギリシア人のそれと同様、究極的には人間界と対立するものとしての動植物界の理解から導かれたものであった。それゆえ、『動物誌』(ヒストリア・ゾオン)において、彼は動物界と人間界の連続性を説く。ところがこの科学的な見解につけ加えて、アリストテレスは彼一流の目的論によって、次のような一種の半形而上学的な注解を展開するのである。
彼によれば、すべて生命をもつものはそのテロス、すなわち目的をもっている。たとえばどんぐりのテロスは、樫の木になることである。ところがギリシア語テロスから派生した形容詞テレイオスは、「結果として生じた」とか「目的を果たした」ということのほかに、科学的・記述的のみならず価値規範的な内容をも含んだ「非のうちどころのない」という趣旨で、「完全な」という意味を有していた。それゆえアリストテレスによる動物から人間にいたるまでの一連のスペクトルの中では、人間は「もっとも完成された」すなわち非のうちどころなくできあがった最極端の位置を占めているのである。リチャード・ライダーが「種による偏見」と名づけたような、西洋自然科学の潮流における淵源は、ここにある。
ここまでは、おそらく予測のつくことであろう。だがその後に、驚くべきことがひかえている。アリストテレスにとってはこうした完成ないし非のうちどころのなさとは、形態のみならず本質にかかわるものである。ここでの議論に最もかかわりが深いのは、アリストテレスの目的論における完全性が、ジェンダーも包摂していることである。したがって、人間の男性はあらゆる生物の中でもっとも非のうちどころなく男性的であり、人間の女性はもっとも女性的だとされるのである。
だが、アリストテレスにとって「男性的であること」と「女性的であること」は、同等の価値をもつものであろうか。絶対のそうではない。アリストテレスの目的論は、価値規範的であると同程度に男女差別的でもある。彼の『動物発生論』によれば、女性は男性の「反対(エナンティオン)」であるとともに男性より劣る存在であり、それのみか一種の自然のきまぐれから生じた変異種である。宦官と完全な男性との関係は、女性が男児に劣るという関係と相似であり、男児は―宦官とはまたちがった意味で―不完全な男性であるともいえる。『古代ギリシア人 自己と他者の肖像』ポール・カートリッジ 橋場弦訳 白水社 2001年 120頁

 

 二つの法の媒介者たる君主、神が人間たちに遣わした〈生ける法〉たる君主、神が人間たちに遣わした〈生ける法〉たる君主、〈法から解放されている〉(legibus solutus)と同時に〈法に拘束されている〉(legibus alligantus)君主といった諸観念は、明らかな理由によって、当時において少しも珍しいものではなかった。というのも、中世のあらゆる法哲学的思考は不可避的に次のような想定に基準を置いていたからである。すなわち、いわば超法的な自然法というものが存在し、この自然法は、あらゆる実定法から独立してそれ自体において自足的に存在するがゆえに、何らかの王国とか国家の存在には―事実、いかなる王国や国家の存在にも、依存していないという想定である。法のこの根本的な根本的に二重な様態については、法学者と神学者の間で深刻な見解の対立は存在しなかった。事実、この点に関して少なくとも一つの本質的な論点を完全に明確にしたのは、トマス・アクィナスである。彼は、実定法はいずれにしても自らの効力を君主から受け取るのであるから、実定法の強制的な力(vis coactiva)に関するかぎり、確かに君主は<法から解放されている>(legibus solutus)のであると説明している。しかし他方でトマスは、君主は自然法の指導的な力(vis directiva)に服しており自然法自ら進んで従わなければならないと主張した(トマス・アクィナスはこの趣旨でローマ法のレクス・ディグナを引用し、これに全面的に同意している)。巧妙な用語によるこの定義は、難問に対する許容可能な解決を明らかに提示したものであり(これは、後世の国王絶対主義の敵対者と擁護者の双方にとって許容可能なものであり、ボシェエによっても依然として引用されている)、本質的な点に関しては、ソールズベリーのヨハネスの考え方に合致するだけでなく、皇帝は法の上に位するが、理性の指導的な力には拘束されていると述べたフリードリヒ二世の考え方にも合致していた。『王の二つの身体 中世政治神学研究』エルンスト・H・カントローヴィチ 小林公訳 平凡社 1992年 152頁  

 

子を持てば親は親になる。無数の「妻の不貞を疑う夫」の物語が生まれた。親子関係の疑いは虚無である。しかし、男は懐疑する。すべての地域において常に、その社会における集団の最小単位が家、ないし家族である。実際、person個人という捉え方は個体が族として活動することを要求している。

 

歴史を通じて、基準または資格として年齢が利用された。個体の死で失せる能力より、成員間の利益の混線に重きを置いた。概して、閉じた社会は独身を高く評価しない。出自を志向し、共同への参入を限定する。婚姻と血筋でつながり、妻子を持ち、共同の利害に埋もれることを要求する。

 

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